いだてん-金栗四三(中村勘九郎)のモデルと実話のネタバレ

NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」のモデルとなる金栗四三(中村勘九郎)のモデルと実話のネタバレです。

■金栗四三(中村勘九郎)のモデルの実話 

NHK大河ドラマ「いだてん」に登場する金栗四三(中村勘九郎)は実在の人物で、実在のモデルと同姓同名です。

実在のモデルとなる金栗四三は、明治24年(1891年)8月24日に、熊本県玉名郡春當村中林で、8人兄弟の7番目(4男)とて生まれた。父は金栗信彦、母は金栗シエである。

金栗家は祖父の時に造り酒屋を営み、地元の名士となっていたが、父・金栗信彦が造り酒屋を廃業して、農業をしていた。

父・金栗信彦は、金栗四三が高等小学校を卒業したら農業をやらせようと考えていたが、長男・金栗実次が「中学へ行かせて欲しい」と説得してくれたので、金栗四三は熊本中学玉名分校(玉名中学)へと進学する事が出来た。

そして、金栗四三が高等小学校を卒業する前に、父・金栗信彦が死去したため、以降は長兄の金栗実次が父親が代わりとなって、学費を出してくれた。

明治38年、金栗四三は漢文の授業中に「ドーン、ドーン」という地鳴りを聞く。それが、東郷平八郎率いる日本艦隊が、日本海でロシアのバルチック艦隊を撃破したときの音だと知り、海軍兵学校を志す。

しかし、海軍兵学校入試第一次の身体検査のとき、角膜炎になってしまい、不合格となってしまう。

その後、先輩の話を聞いて、中国大陸にある東亜同文書院を受験することに決めたが、その前哨戦として、学問の最高学府・東京高等師範学校を受験する。

あくまでも、前哨戦のつもりだったので、全く受験勉強をしていなかったのだが、東京高等師範学校に合格してしまう。

しかし、東京高等師範学校では、出世しても校長止まりなので、東京高等師範学校を蹴って、本命の東亜同文書院を目指そうと考えた。

ところが、長兄・金栗実次が「東亜同文書院の受験に失敗したら、百姓でもするつもりか」と言って反対したので、金栗四三は長兄・金栗実次に反対してまで東亜同文書院に行く気にはなれず、東京高等師範学校へと進んだ。

この進学が金栗四三の運命を左右する大きな分岐点となる。

■オリンピックへの道

東京高等師範学校の校長は嘉納治五郎だった。嘉納治五郎は柔道の創始者として有名だが、教育者としても有名で、学業に運動を取り入れており、マラソン大会を開催していた。

金栗四三は学業は優秀だったが、体育や剣道は苦手で、スポーツの成績は良くなかった。

しかし、高等小学校の時に往復12kmを毎日通学していたので、走ることには自信があり、入学してすぐのマラソン大会は25位、秋のマラソン大会では3位に入賞し、嘉納治五郎から激賞された。

これで、本格的に走ることに決め、東京高等師範学校の本科に進むと、徒歩部(陸上部)に入りマラソンのトレーニングを開始する。

明治44年、校長の嘉納治五郎が国際オリンピック委員会の委員を務めていた関係で、日本もオリンピックへの参加を要請された。嘉納治五郎はオリンピックに参加するため、日本体育協会を設立し、日本オリンピック委員会を発足する。

そして、ストックホルムオリンピックに出場する日本代表を決めるため、予選会を開いた。

金栗四三は予選会に出場して25マイル(約40km)を走り、世界記録を約27分も上回る2時間32分45秒という大記録で優勝した。

ただし、金栗四三が出した世界新記録にはちょっとした裏がある。これは陸上界の暗黒史なのでネタバレしてはいけない話なのだが、嘉納治五郎は地図とコンパスで25マイルを算出しており、実際のコースで距離は測っていなかった。

このため、実際は25マイルなかったのではないと言われているのだ。

兎にも角にも、金栗四三はマラソンで優勝し、短距離で優勝した三島弥彦とともに日本初のオリンピック選手に選ばれたのである。

しかし、これは、そう簡単に喜べることではなかった。

当時、学生の本分は学業であり、スポーツは単なる遊びとして考えられていた。このため、文部省がオリンピック参加に反対したので、補助金の話は無くなり、参加費用1800円(現在の価値で約480万円)は全額個人負担となっていた。

さらに、ストックホルムオリンピックに参加すれば、スポーツ(遊び)のために、4ヶ月も学業を中断しなければならないのだ。

このため、金栗四三は日本代表を固辞したが、尊敬する嘉納治五郎から、先進国から遅れている日本の現状を訴えられ、「日本スポーツ界のめに黎明の鐘となってくれ」と頼まれたため、日本代表を引き受けた。

しかし、費用の方はどうにもならない。兄・金栗実次はマラソンより学年に専念するように注意していたので、金栗四三はこと断られるだろうと思ったが、実家の兄・金栗実次に手紙を出してみた。

すると、金栗実次は日本代表になったことを喜び、「金のことは決して心配するな。たとえ田畑を売っても、そのための金なら惜しくはない」と応援してくれた。

その後、東京高等師範学校の有志が募金を集めてくれ、1500円ほど集まったので、兄・金栗実次には残りの300円を負担してもらい、参加費用の目処を立てた。

■マラソン足袋とストックホルム大会

当時の日本にランニングシューズなど無く、長距離には軽い方が有利ということで、普通の足袋を履いて走っていた。

しかし、普通の足袋では25マイル(約40km)という長距離には絶えられず、金栗四三が予選会でゴールしたときには、足袋はボロボロになっており、裸足でゴールするという有様だった。

そこで、金栗四三は、東京高等師範学校の近くにあった足袋屋「ハリマヤ」の主人・黒坂辛作に、足袋の改良を頼んだ。こうして、足袋の底を三重に補強した足袋ができあった。これが「マラソン足袋」の始まりである。

こうして、金栗四三は改良したマラソン足袋を持って、明治45年(1912年)のストックホルム大会に出場したのだが、日本は土道路だったのに対して、ストックホルム道路は舗装道路だったので、足袋底を布で補強したマラソン足袋では衝撃が吸収できず、金栗四三は練習で膝を痛めてしまう。

しかも、本番の大会でも、26㎞付近で熱中症になって倒れて棄権するという結果に終わった。

このとき、金栗四三は大会本部に棄権を届けずに帰国したため、大会側では「行方不明」という記録になっていた。

■春野スヤとの結婚とベルリンオリンピック

帰国した金栗四三は、次のベルリンオリンピックに向けてトレーニングを開始。東京高等師範学校の最終学年になると、徒歩部(陸上部)の部長となり、後輩の育成にも励む。

マラソンを教育に取り入れている愛知一中の日比野校長から、卒業したら教員として来て欲しいと頼まれるが、金栗四三はベルリンオリンピックを目指すため、誘いを断り、東京高等師範学校の研究科へと進むことにした。

そのようななか、熊本県玉名郡の資産家・池部家に嫁いだ叔母・池部幾江が、夫に先立たれて子供も居なかったことから、実家の金栗家に四男の金栗四三を養子に欲しいと言っていた。

金栗四三の兄・金栗実次は断ったが、どうしてもと言うので、金栗四三に養子の件を知らせると、金栗四三は「東京に居てもいいのなら、養子になってもいい」と言い、最終判断を兄・金栗実次に任せた。

こうして、金栗四三が池部家の養子になって池部家を継ぐことが決まると、池部幾江は金栗四三が結婚してくれれば、池部家は安泰だと言い、医者の娘・春野スヤを結婚相手に選び、金栗家に結婚をゴリ押しした。

春野スヤは金栗四三のマラソンへの情熱を十分に理解しているというので、兄・金栗実次は春野スヤのことを気に入り、兄・金栗実次の鶴の一声で、金栗四三は春野スヤと結婚を前提とした見合いをすることいなってしまった。

そして、大正3年4月、東京高等師範学校を卒業した金栗四三は、見合いのために熊本県に帰郷し、春野スヤと見合いし、その翌日に結婚式を挙げた。

そして、金栗四三は、ベルリンオリンピックを目指すため、結婚式から5日後に、新妻の春野スヤを熊本に残し、単身で東京へと戻り、東京高等師範学校の研究科へと進んで、トレーニングとマラソンの普及に努めた。

ところが、大正3年6月28日に、オーストリアの皇太子フランツ・フェルデナント侯爵とその妻ゾフィーがサラエボで暗殺されるという「サラエボ事件」が発生。これに端を発して第1次世界大戦が勃発してしまう。

このため、大正5年のベルリンオリンピックは、第1次世界大戦の影響で中止となってしまうのだった。このとき、金栗四三は25歳で、マラソン選手として絶頂期だった。

なお、金栗四三と春野スヤは、新婚早々から別居し、手紙のやり取りをして、ときどき、春野スヤが上京するという生活がしばらく続くことになる。

また、金栗四三が養子に入る池部家は、働かなくても生活出来るほどの資産家で、金栗四三が働かなくてもマラソンが出来たのは、池部幾江の支援があるからだった。

大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」-金栗四三のモデルと実話」へ続く。

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