永井道明の生涯

NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する永井道明(杉本哲太)の実在のモデルを実話でネタバレします。

■永井道明の生涯

永井道明(ながい・みちあきら)は、明治元年(1869年)12月18日に茨城県水戸市蔵前で、水戸藩士・永井衡敏の次男(10人兄弟)として生まれた。

永井家は、平安時代の儒学者・大江匡房の末裔で、祖父・永井政介も父・永井衡敏も水戸藩の藩校「弘道館」の師範という由緒正しい家系で、親族には水戸学者の藤田東湖や藤田幽谷が居る。

しかし、永井家の身分は、単なる小役人に過ぎず、子供が10人ということもあって生活は苦しかった。

さて、永井道明は、小さい頃から体が弱かったが、無事に市下小学校を卒業して、明治15年に水戸中学校へ進学した。

このころから水戸では、学校の体育で普通体操が始まり、永井道明は戸中学校で星野久成から普通体操を学んで興味を持ち、普通体操の稽古に励んだ。

このようななか、永井道明は江戸遊学を望んだが、永井家は貧しかったので長男を江戸(東京)にやるだけで、精一杯だった。

そこで、永井道明は奨学金を申請したが、永井家は小官吏(小役人)だったので、奨学金が認められず、江戸遊学を断念して、茨城師範学校へと進学した。

このころ、文部大臣・森有礼が軍事的思惑から、学校の体育に兵式体操を導入しており、永井道明は茨城師範学校で兵式体操を学び、兵式体操に感銘を受けて熱心に訓練し、運動会などで兵式体操の指揮を任されるほどになった。

■東京高等師範学校へ進学

永井道明は江戸遊学を断念していたが、同情してくれる人が居り、姉の夫・吉成愼之允が支援してくれたので、明治23年に茨城師範学校を卒業すると、教師を育成する東京高等師範学校(筑波大学)の博物館科へと進学することができた。

これは永井が博物館に興味あるわけではなく、東京高等師範学校の採用は毎年、1科だけで、この年の募集が博物館科だけだったという理由である。

永井道明は、東京高等師範学校時代に、「日本初の体操教師」と言われる坪井玄道から普通体操を指導されているのだが、後に坪井玄道と対立することになる。

さて、永井道明は、東京高等師範学校を卒業後、東京高等師範学校付属中学校の助教諭となる。この時代の教えの子の中には、後に総理大臣になる鳩山一郎(鳩山由紀夫の祖父)も居た。

その一方で、永井道明は、麻布の歩兵第1連隊に入隊。6週間の軍隊経験で日本の軍隊の実情を知って軍人観を向上さ、国民教育は、まず完全な軍人を作ることにあると思うのであった。

■体操校長

永井道明は、明治29年に奈良県の畝傍中学校へ赴任して、畝傍中学校の創立に尽力し、明治32年には畝傍中学校の校長に就任。主に修身と体操を指導し、「体操校長」を呼ばれるようになった。

そのようななか、永井道明は、先輩の小森慶助から兵庫県の姫路中学校の更生を依頼されるが、畝傍中学校は設立されたばかりだったうえ、姫路中学校の復興は簡単ではなかったので、依頼を断っていた。

しかし、県知事の許可も受けており、優秀な教師を揃えたと言い、色々な人からの勧めもあったので、明治33年に兵庫県の姫路中学校の長に就任し、姫路中学校の復興にあたる。

永井道明は頑固な性格で、自分の教育方針を貫き、姫路中学校でも体育に力を入れ、「体操校長」の名前を上げていたが、保護者には受け入れられなかったようで、一部の保護者からは反感を買っていた。

そのようななか、明治37年に日露戦争が勃発。日本国民は日露戦争での勝利に酔いしれたが、永井道明は日本人の体力の低さを目の当たりにして、体育の必要性を痛感するのであった。

■海外外遊とスウェーデン体操

ところで、日本の体育は、文部省が管轄する普通体操と、陸軍省が管轄する兵式体操を教えていたのだが、洋行帰りの川瀬元九郎や井口あぐりが「スウェーデン体操」を持ち帰って普及に励んだ。

これに対抗するように、洋行帰りの坪井玄道がヨーロッパのスポーツを紹介したため、日本の体育教師は何を指導してよいのかわからなくなり、明治30年代の後半に日本の体育界は混乱期を迎えた。

そこで、文部省は、乱立する体操を整理分類して統廃合を図るため、調査委員会を設置して、調査員を任命したが、普通体操派とスウェーデン体操派による派閥争いがあったため、調査報告書は問題を多く残し、体操の統廃合に失敗してしまう。

このため、文部省は海外の体育を調査するため、留学生の派遣を決定。当初は佐々木吉三郎に内定していたようだが、佐々木吉三郎が辞退したらしく、永井道明が留学生に選ばれた。

こうして、永井道明は姫路中学校を退職して、昭和38年12月に欧米外遊に出発。アメリカ各地を巡って体育を学んだ後、スウェーデンの王立中央体操練習所でスウェーデン体操を研究し、ヨーロッパ各国を視察した。

明治41年には、滞在していたイギリスで、日本では無名のオリンピックが開催されており、ロンドン・オリンピックも視察している。

その後、永井道明は、明治42年1月に帰国して、東京高等師範学校と東京女子高等師範学校の教授に就任するのであった。

東京高等師範学校は教師を育成する最高機関で、永井道明は東京高等師範学校の体育主任に就任しているので、日本体育教師のトップと言っても過言では無い。

■大日本体育協会の設立

さて、マラソンや水泳を教育に取り入れていた東京高等師範学校の校長・嘉納治五郎が、明治42年に東洋初の国際オリンピック委員に選ばれた。

このとき、東洋からオリンピックに参加している国は無かったので、明治43年に国際オリンピック委員会の会長・クーベルタンは、嘉納治五郎に日本のオリンピック参加を要請する。

要請を受けた嘉納治五郎は、オリンピックに参加するため、文部省や日本体育会に日本オリンピック委員会の設置を要請したが、当時はスポーツを「遊戯」と言って、遊びの延長という扱いを受けていたので、相手にされなかった。

そこで、嘉納治五郎は、スポーツに理解のある東京帝国大学・東京高等師範学校・早稲田大学・慶応義塾大学・明治大学などに協力を要請して「大日本体育協会」を設立し、その会長に就任すると、大日本体育協会に日本オリンピック委員会を設置した。

永井道明も、大日本体育協会の発足に加わっており、永井道明・大森兵蔵・安部磯雄の3人が大日本体育協会の総務理事に就任し、明治45年のアムステル・オリンピック参加に向けて尽力した。

そして、オリンピックの予選大会が開催され、東京高等師範学校の金栗四三がマラソンの日本代表に、東京帝国大学の三島弥彦が短距離の日本代表に選ばれた。

金栗四三との関係については、具体的なエピソードは残っていないが、永井道明は東京高等師範学校の舎監も務めていたので、寮生活をしていた金栗四三の私生活の面倒もみている。

その一方で、永井道明は「家庭体操」を考案し、海軍などでも指導した。「家庭体操」は評判が良く、大正天皇の耳に入り、永井道明は御所から呼び出されて、大正天皇の御前で「家庭体操」を披露して、大正天皇にも「家庭体操」を指導した。

また、永井道明は、明治神宮体育大会や極東選手権大会の発足にも関与し、大会でマスゲームも指揮した。

■学校体操教授要目の制定

ところで、文部省はあくまでも体育は教育のためだと考えていたが、陸軍省は兵士を育成する目的で兵式体操を導入していた。

そこで、文部省は、スウェーデン体操の登場により、混乱する体育界を沈めるため、体操を統廃合して統一しようとしていた。

文部省は、同時に、兵式体操を普通の体操として組み入れるとともに大幅に削減し、学校体育から陸軍省を排除しようとしていたのである。

こうした動きを察知した陸軍省は、軍人が指導すれば、体育教師は不要と言い、兵式体操に統一することを主張し、話し合いを求めたのである。

こうして、永井道明が留学に出ている間に、文部省と陸軍省による調査委員会が設置され、「学校体操教授要目」の制定に取りかかっていたが、文部省と陸軍省の主導権争いもあり、話し合いはまとまらなかった。

そこで、留学に出ている永井道明の帰国を待ち、調査委員会を仕切り直すことになったのである。

スウェーデン体操を学んで帰国した永井道明は、メンバーを入れ替えた第2次・調査委員会に加わり、スウェーデン体操を支持した。

また、永井道明は、国民教育は完全な軍人を作ることにあると考えており、思想的には陸軍よりだったので、陸軍省に列強諸国の軍事にスウェーデン体操が役立っていることを説明し、スウェーデン体操が陸軍のためになると言い、陸軍省を説得することに成功した。

こうして、永井道明の主導により、大正2年に日本初の「学校体操教授要目」が制定されたのである。

大正2年の「学校体操教授要目」は、スウェーデン体操が中心に、兵式体操が取り入れられたほか、戦争で途絶えていた柔道と剣道が正課に採用されている。

そして、永井道明は、体操の研究に熱心だった鳥取師範学校の教諭・三橋喜久雄を異例の抜擢で、東京高等師範学校に招き入れ、学校体操教授要目の普及を普及させるため、指導に奔走するのだった。

■嘉納治五郎との対立

永井道明の主導により、大正2年に日本初の「学校体操教授要目」が制定せれたが、大正2年の「学校体操教授要目」は、体育界の混乱を鎮めるために、乱立する体操を整理統合して統一することが目的だった。

このため、「学校体操教授要目」の内容が理想的かどうかまでは考慮されておらず、スウェーデン体操を中心としながらも、兵式体操を取り込むなどしており、打算の産物だった。

大正2年の「学校体操教授要目」は、永井道明と三橋喜久の奔走によってによって定着したが、「学校体操教授要目」に対する科学的な検証が加えられるにつれ、「学校体操教授要目」に対する批判が起きてくる。

そうした一方で、スエーデン体操派の永井道明は、東京高等師範学校で、普通体操やスポーツ派の嘉納治五郎・可児徳・坪井玄道らと対立するのであった。

また、永井道明が招き入れた三橋喜久雄は東京高等師範学校の出身ではなかったため、これも対立の火種となった。

その結果、東京高等師範学校での派閥争いに負けた永井道明は、大正10年に欧米外遊から戻ると東京高等師範学校と東京女子高等師範学校の教授を辞任した。ただし、講師として学校には残った。

そのようななか、旧・高松藩松平家の松平賴壽が東京で本郷中学校を設立することになり、永井道明は全権を委任された。

このため、永井道明は大正11年に東京高等師範学校の講師を辞して、本郷中学校の創設にあたり、大正12年に東京女子高等師範学校の講師も辞めて、本郷中学校の初代・副校長に就任した。

初代・理事長兼校長は松平賴壽が就任したので、永井道明は副校長だったが、実質上の校長で、学校全体を指導しながらも、体育の指導に力を入れた。

■学校体操教授要目の第1次改正

永井道明は、本郷中学校の副校長として体育を指導する一方で、三橋喜久雄らとともに「大日本体育同士会」を設立し、雑誌「日本体育」を発行して、スエーデン体操派の巻き返しを図った。

これに対して、東京高等師範学校は「体育学会」を設立し、雑誌「体育と競技」を発行して、体育の研究結果を発表していった。

このようななか、大正2年の学校体操教授要目について、各方面から批判の声があることを受け、文部省は大正13年に「体育研究所」を設置して、体育の研究を開始した。

日本がオリンピックや極東大会などの大会に参加したことで、次第にスポーツが認められるようになっており、「体育研究所」のメンバーは、スポーツ派で固められ、その中には永井道明の教え子・野口源三郎も居た。

そして、スポーツ派の主導によって、「学校体操教授要目」は大正15年に第1次改正が行われ、スエーデン体操が大幅に排除され、体操が整理統合されるとともに、スポーツが「遊戯」から独立して「競技」として正課に採用された。

こうして、普通体操・スポーツが体育の主流となり、勢力争いに敗れた永井道明らが発行していた雑誌「日本体育」も廃刊となった。

そして、文部省は「学校体操教授要目」以外を教えることを禁じ、「学校体操教授要目」の徹底を指導したので、スエーデン体操は学校体育から排除されていった。

大正15年以降も「学校体操教授要目」は改正を重ねるのだが、永井道明には「国民教育は、まず完全な軍人を作ることにある」という思想があったため、文部省は体育を軍事利用されることを嫌い、永井道明を改正メンバーに加えることは無かった。

■永井道明の晩年

永井道明は体育界の中央政権から遠ざかったが、体育に対する功績は大きく、全国の体育関係者が永井道明の功績を称えて、永井体育館を建設して永井道明に寄贈した。

さらに、昭和7年には教え子の文部大臣・鳩山一郎から表彰され、昭和15年には厚生大臣・金光庸夫から表彰された。

永井道明は、既に70歳を超えており、昭和15年に本郷中学校を辞職。その後は顧問として永井体育館を通じて体育に貢献してたいが、昭和17年に悪性の貧血症で倒れたうえ、昭和17年12月に太平洋戦争に突入し、自宅を空襲で焼失してしまう。

幸いにも永井体育館は空襲を免れており、戦後も本郷中学校や永井体育館で体育に貢献しようとしたが、悪性の貧血症が再発して床に伏せるようになり、昭和25年(1950年)12月13日に死去した。享年83だった。

現在も体育館の端に木製の梯子のような謎の遊具がある。あの謎の梯子は「肋木(ろくぼく)」と言って、スウェーデン体操に使う道具で、ほとんど利用されないのに、体育館に設置されているのは、スウェーデン体操の名残である。

なお、NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」の登場人物の実話は「大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」のキャストとモデル」をご覧ください。

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