いだてん-中沢臨川(なかざわ・りんせん)のモデルのネタバレ

NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する中沢臨川(なかざわ・りんせん)の実在のモデルのネタバレです。

■中沢臨川(近藤公園)のモデル

実在のモデルとなる中沢臨川(本名は中沢重雄)は、明治11年(1878年)10月28日に長野県伊那郡大草村で、養命酒の酒造家・塩沢伊八郎の次男として生まれた。

塩沢家は江戸時代から庄屋を務める家柄で、養命酒を酒造本家で地元の名士である。海軍大将の塩沢幸一は、中沢臨川の弟である。

さて、中沢臨川は、明治25年(1892年)に松本中学へ入学する。2年上の窪田空穂(歌人)、1年下の吉江喬松(作家)が居た。この頃の学生は文芸熱が高く、中沢臨川も中学時代に詩や小説を書いており、中学時代から文庫に新体詩を発表していた。

その後、松本中学を卒業して第二高等学校へ進学。島崎藤村の詩集していたが、次第に西洋文学に傾倒し、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」に熱中したという。

中沢臨川は、明治32年(1899年)8月9日に、子供の居ない南安曇郡梓村の中沢良作の養嗣子に入り、同時に原篤蔵の4女・原ホモ(中沢良作の妻の妹)と結婚した。中沢臨川は進学費用を出すという条件で養子になったのだという。

中沢臨川は明治34年(1901年)に上京して東京帝国大学工科大学へ進学し、電気学を専攻した。妻・中沢ホモも跡見女学校へ入学し、夫婦で学生生活を送った。

そして、明治35年(1902年)、中沢臨川は、窪田空穂・吉江喬松・小山内薫・蒲原有明・岡田八千代らとともに文芸雑誌「山比古(やまびこ)」の創刊に加わり、論文を発表した。

明治37年(1904年)に東京帝国大学工科大学を卒業して東京電気鉄道会社の技師となり、その後、京浜電気鉄道会社の技師長となった。その一方で、文学の方も続けており、昭和38年(1905年)に初の文集「鬢華集」を出版した。

■天狗倶楽部の創設

ある日、酒の席で小説家・押川春浪が、学校以外に公共の運動場を作って一般人にも体育を推奨したいと言うと、中沢臨川は考えがあるので、後で相談しようと言った。

そして、中沢臨川は京浜電気鉄道会社の電気課長だったので、上層部に話を持って行き、使用されていなかった羽田の土地6万坪のうち1万坪をグラウンドとして提供してもらい、羽田運動場を建設することに成功した。

羽田運動場は京浜電気鉄道会社の運営だが、中沢臨川自身もかなりのお金を出したという。

こうして、明治42年(1909年)に羽田運動場ができ、スポーツ選手を育成する「日本運動倶楽部」が設立された。

また、「日本運動倶楽部」に平行して、単純にレクレーションとして運動を楽しむ社交クラブ「天狗倶楽部」も設立された。押川春浪が「天狗倶楽部」の実質的なリーダーで、中沢臨川はナンバー2だったという。

なお、明治44年(1911年)に羽田運動場で日本初のオリンピック予選が開催されたとき、中沢臨川は長距離(マラソン)のコース25マイルの測定を担当した。

しかし、中沢臨川は、実際のコースを測定せず、陸軍参謀本部の2万分の1の地図を使い、1町ごとに測量した。

このため、実際の距離は25マイルなかったようで、予選に出場した金栗四三ら3人が世界記録を更新するという事態を起こして世間を騒がせた。

■晩年

中沢臨川は、大正元年(1912年)に「中央公論」にトルストイ論が掲載されたことが切っ掛けで、文学者としても評価され、親友の押川春浪が大正3年(1914年)に急死すると、「武侠世界」の主筆も務めた。

その後、中沢臨川は、大正5年(1916年)に故郷の長野県へと帰り、中沢電気会社を設立して会社を経営する一方で、文学も続け、大正7年(1918年)にニーチェの中年期を綴った小説「嵐の前」を発表した。

その後も中沢臨川は、執筆活動を続けていたが、酒が命を縮めたと言われ、大正8年頃から体調が悪化し、会社経営も失敗して会社をたたんだ。

その後、中沢臨川は、東京の窪塚に引っ越して静養したが、静養のかいもなく、大正9年(1920年)8月9日に咽頭結核により死去した。42歳だった。

なお、NHK大河ドラマ「いだてん」の登場人物のモデル一覧は「大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」のキャストとモデル」をご覧ください。

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