いだてん-三島弥彦のモデルのネタバレ

NHK大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する三島弥彦(生田斗真)の実在のモデルのネタバレです。

■三島弥彦のモデルのネタバレ

実在のモデルとなる三島弥彦(みしま・やひこ)は明治19年(1886年)2月23日に、東京府麹町区八重洲町で、父・三島通庸と妻・三島歌子の三男として生まれた。

父・三島通庸は、「鬼県令」「土木県令」と恐れられた警視総監も務めたという人物だが、三島弥彦が3歳の時に死去している。

三島弥彦の兄・三島彌太郎は、日本銀行の総裁を務めた人物で、徳冨蘆花の小説「不如帰(ほととぎす)」のモデルにもなっている。

(注釈:詳しくは「不如帰(ほととぎす)-あらすじと実話とモデルのネタバレ」をご覧ください。)

さて、三島弥彦は、学習院の初等科から高等科まで、学習院に通った。子供の頃は体が良かったため、家族に勧められてスポーツを開始し、中学時代から、野球・陸上・ボート・柔道・水泳・乗馬など様々な競技で実力を発揮した。

三島弥彦が一番好きだったのが野球で、学習院の野球部を強豪校へと導いたほか、早慶戦などでも野球の審判も務めた。野球の次ぎに好きだったのが陸上だという。

さて、三島弥彦は明治40年(1907年)に東京帝国大学(東京大学)の法学部へ進学した。

明治42年(1909年)に中沢臨川や押川春浪が中心となり、羽田競技場が建設され、スポーツ競技団体「日本運動倶楽部」も設立された。

これに平行して、中沢臨川や押川春浪が中心となり、スポーツを楽しむ社交団体「天狗倶楽部」も発足しており、「天狗倶楽部」によって各スポーツの大会のようなものが開催されていた。

三島弥彦は、「天狗倶楽部」が相撲大会を開催したとき、「天狗倶楽部」の助っ人として呼ばれ、これが切っ掛けで、「天狗倶楽部」に入ったようだ。

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■日本初のオリンピック予選と日本代表

柔道で有名な嘉納治五郎は、教育者としても有名で、東京高等師範学校の校長をしていた。

その一方で、嘉納治五郎は東洋初のIOC委員(国際オリンピック委員会委員)となっていた関係で、嘉納治五郎はオリンピック参加を要請され、日本はアジア初の参加国として、明治45年のストックホルム・オリンピックに参加することになった。

しかし、当時はオリンピックが無名で、オリンピック出場に対応するような部署がなく、各部署から対応を断れた。

また、学生の本分は勉強で、運動は遊びだと考えられていたため、文部省などの協力が得られなかった。

そこで、嘉納治五郎は、運動に理解のある大学と相談して、明治44年(1911年)に「大日本体育協会」が設立し、羽田競技場で日本初のオリンピック予選が開催することにした。

「天狗倶楽部」はオリンピック予選の準備に関わっており、三島弥彦も大会の審判を任されていた。

三島弥彦は大会に出場する気など無く、審判として会場を訪れたのだが、会場に来てみると、好戦癖がムクムクと起きてききた。

三島弥彦は久しく練習などしていなかったのだが、とにかく走ってみようと思い、予選に出場すると、100メートルで1位となった。

そこで、200メートル、400メートル、800メートルにも出場してみると、200メートルで2位になった以外は全て優勝するという結果となり、マラソン(長距離)に出場した東京高等師範学校の学生・金栗四三とともに、日本代表に選ばれたのである。

三島弥彦の記録は世界記録と比較すると、世界と戦えないことは分かっていた。他にも幅跳びや高跳びなどの競技の予選も行っており、他にも出場候補は居た。

しかし、スポーツに理解の無い文部省から補助金を打ち切られており、オリンピックに参加するには相当な自己負担金が必要なため、財力や家柄を考慮して三島弥彦が選ばれたのだろう。

さて、学生の本分は学業であり、遊び(スポーツ)と考えられていたため、三島弥彦と金栗四三は日本代表に選ばれたが、長期間、学業を放り出してオリンピックに参加するということに、苦悩する。

金栗四三はお金の問題と学業を長期間離れるという問題で、日本代表を辞退しようとしたが、校長・嘉納治五郎から「日本スポーツ界のめに黎明の鐘となってくれ」と頼まれ、オリンピック出場を決意した。

三島弥彦は裕福な家庭なので、お金の問題は無かったようだが、学業の問題で苦悩して辞退しようとしたようだ。

しかし、三島弥彦も東京帝国大学の学長や仲間からの説得を受けて、オリンピック出場を決意した。

すると、流石に、のんきだと言われた三島弥彦も日本代表ということで、本腰を入れて練習を始めてタイムを縮めた。

天狗倶楽部のメンバーも、天狗倶楽部から日本代表が出るということで喜び、何かお祝いをしようと思ったが、何が良いのか結論が出ず、マラソン大会を開いて三島弥彦を応援した。

■ストックホルム・オリンピックに出場

明治45年(1912年)5月16日、三島弥彦は天狗倶楽部に見送られ、金栗四三とともに日本を出発する。同行した監督の大森兵蔵は体調が悪化しており、妻・大森安仁子(アニー)が付き添った。嘉納治五郎は、同行できず、遅れて現地に向かうことになっていた。

日本代表は船でロシアのウラジオストックに渡り、シベリア鉄道を使ってストックホルムへと向かった。2週間の長旅だった。

その後、ストックホルムに着くと、三島弥彦らは練習を開始するが、体格の良い外国に圧倒されてしまう。

しかも、監督の大森兵蔵が床に伏せてしまい、監督不在になったうえ、初めての外国、初めて白夜などで悪条件が重なり、三島弥彦も金栗四三もノイローゼ気味になってしまった。

その後、遅れていた嘉納治五郎が合流すると、少し、落ち着きを取り戻し、三島弥彦はストックホルム大会に出場するが、100メートル、200メートル、400メートルの予選で最下位という散々な成績だった。

400メートルは、棄権者が出たので、最下位でも予選通過となって本戦に出場することが出来たが、三島弥彦は戦意を喪失しており、本戦を棄権した。

一方、金栗四三は1000メートルを棄権して、金メダルの期待がかかるマラソン1本に絞り、マラソンに出場した。

しかし、マラソンは猛暑に見舞われて、68人中、半分の34人しかゴールできないという過酷なレースとなり、金栗四三も26㎞付近で熱中症になって倒れて棄権するという結果に終わった。

こうして、日本初のオリンピックは終わると、三島弥彦と金栗四三は、次のベルリン・オリンピックを目指してベルリンを視察した。このとき、ベルリンで明治天皇の崩御を聞いたという。

さて、ベルリンで数日間滞在した三島弥彦と金栗四三は、ベルリンで日本で知られていないホーガンなどのスポーツ用品を買い込んで帰国する。

ただ、帰国時は別行動を取っており、金栗四三は大正元年9月17日に帰国したが、三島弥彦は世界各地を視察して、大正2年(1913年)2月7日に帰国した。

なお、ドラマ「天皇の料理番」のモデルとなった秋山徳蔵は、フランスで料理の修業をしていたが、大正天皇の料理番への就任を要請され、大正2年3月に帰国している。

(注釈:秋山徳蔵について詳しく知りたい方は「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧ください。)

そさて、帰国した三島弥彦は、大正2年に東京帝国大学を卒業して、横浜正金銀行に入行。ロンドンやサンフランシスコ勤務を経て、横浜本店営業部副支配人へと出世する。

大正5年(1916年)のベルリンオリンピックは第一次世界大戦の影響で中止された。1920年(大正9年)にアントワープ大会が開催されたが、三島弥彦は予選に出場しなかった。

三島弥彦は、東京帝国大学を卒業後にスポーツから引退したようで、スポーツ方面についての詳しいことは分からず、仕事は昭和18年(1943年)に退職して、昭和29年(1954年)2月1日に死去した。68歳だった。

なお、NHK大河ドラマ「いだてん」の登場人物のモデル一覧は「大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」のキャストとモデル」をご覧ください。

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