いだてん-ヤジ将軍・吉岡信敬のモデルのネタバレ

NHKの大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」に登場する日本初の応援団長・吉岡信敬(満島真之介)の実在のモデルのネタバレです。

■いだてん-吉岡信敬のモデル

実在のモデルとなる吉岡信敬(よしおか・のぶよし/しんけい)は明治18年(1885年)9月1日に長州藩士・吉岡湖一郎の三男として生まれた。

父・吉岡湖一郎は若くして明治維新で横死しており、吉岡家は恵まれた家庭ではなかったようで、幼少期については詳しいことが分からず、出生地も山口県説と東京説がある。

さて、吉岡信敬は小学生の頃に東京の小石川に住んでいた。このころ、小石川の少年たちは隣町の少年グループと対立しており、吉岡信敬は対立する少年グループを罵倒して罠に誘い込む役を担っていた。

吉岡信敬のヤジに怒った少年グループが追いかけると、待ち受けていた小石川の少年グループが一斉に石を投げて攻撃するのである。

その後、吉岡信敬は、明治31年(1898年)に早稲田中学校に入学。野球部に入部してセンターを守っていたが、野球の技術はいまひとつで、野球よりもヤジの方に目覚めたらしく、早稲田中学の試合や早稲田大学の試合に出かけていき、ヤジを飛ばすよういなった。

中学4年生の時には、あちらこちらが破れた制服を着て、トレードマークとなる髭を伸ばし、バンカラぶりを発揮していた。

■早稲田大学応援隊の初代隊長に就任

明治38年(1905年)4月にアメリカ遠征を行った早稲田大学の野球部が、日本野球界に多くのもの持ち帰り、早稲田大学と慶應義塾大学の対校戦「早慶戦」もアメリカ式を取り入れて3試合制となった。

そして、アメリカ帰りの早稲田大学が1回戦で、慶應義塾大学に敗れたため、早稲田大学の寄宿生は野球部に飲み物や食べ物を差し入れ、応援に行くことを約束した。

すると、野球部長・安部磯雄が、それなら良い物があると言い、アメリカ遠征の時にアメリカに住む邦人が作ってくれたカレッジフラッグ(学校旗)を託した。

しかし、寄宿生はカレッジフラッグ(学校旗)の振り方が分からなかったので、野球部員を指導者として送って欲しいと頼むと、野球部長・安部磯雄は野球部とも親しく、応援方法を知っていた教え子の吉岡信敬を送った。

こうして、早生大学に日本初の応援隊(早稲田大学応援部)が発足し、吉岡信敬は予科生ながら、大学生を差し置いて初代・応援隊長に就任して、思う存分にヤジを飛ばし、ひげ面という風貌から、「虎鬚彌次将軍(とらひげやじしょうぐん)」と呼ばれるようになった。

■早慶戦中止事件

昭和39年(1964年)11月、早稲田大学と慶應義塾大学の野球部は、1勝1敗で3回戦を迎えた。

早稲田大学と慶應義塾大学の両校は、アメリカ式の応援を取り入れ、早慶戦の応援合戦はエスカレートしており、1回戦のときから陣取り合戦で揉めていた。

3回戦でも数日前から話し合いが行われていたのだが、場所の確保で巡って揉めていた。

そこで、早稲田大学の応援隊長・吉岡信敬は、話し合いの場で、場所を少ししか提供しようとしない慶應義塾大学の応援隊に対して、指揮官を6頭の馬に乗せ、剣を持って、1万人の応援隊で慶應義塾大学のグラウンドに乗り込むと見得を切った。

すると、慶應義塾大学の応援隊も、早稲田大学の応援隊を阻止するため、前夜からグランドにバリケードを張って、寝ずの番で阻止すると言い返した。

この話し合いはこじれにこじれ、両校の教授同士の話し合いへと発展し、終いには学長が事態の収拾に乗り出すことになったが、早慶戦は学校のメンツを書けた戦いであり、どちらも譲らなかった。

その結果、早慶戦の3回戦は中止となった。

最初は1週間程度の試合延期と思われていたのだが、慶應義塾大学の頑固さもあって早稲田大学と慶應義塾大学の全てのスポーツ交流が禁止され、野球に至っては19年間も早慶戦が中止されることになった。

このエピソードが脚色され、吉岡信敬は馬に乗って剣を抜いて応援に駆けつけたという伝説として、全国に広まり、吉岡信敬の名前は全国に広まった。

このため、後に行われた雑誌の人気投票「痛快男子十傑」で「一般学生の部」で1位となり、運動選手では無いのにスポーツ誌の人気投票「運動家十傑」でも10位にランクインした。

また、吉岡信敬は「虎髭ヤジ将軍」と呼ばれていたことから、乃木希典将軍・葦原金次郎将軍とともに明治時代を代表する三代将軍に数えられた。

■場内整理

昭和40年(1965年)に日本初の野球の有料試合が行われたとき、吉岡信敬は有料試合に反対だったので試合には行かなかったが、窪田空穂と話しているうちにじっとしていられなくなり、グラウンドへ行った。

すると、入場料は3段階に分かれているはずなのに、いつも場内整理をしている吉岡信敬が居なかったので、2~3000人の観客は好き勝手に座っていた。

これに怒った吉岡信敬は、バットを持って観客席の前にある台に上り、2~3000人の観客に場外へ出ることを要求した。

これを見ていた窪田空穂は、いくら吉岡信敬の指示とは言え、いったん金を払って入った客が簡単に場外へ出るはずがないと思った。

しかし、出入り口付近に居た客が指示に従って場外へと出ると、他の客もそれにつづき、終いには全員が場外に出た。そして、吉岡信敬の指示に従って再び入場し、入場料金別に座り直して、何の混乱も無く試合が行われた。

■天狗倶楽部に入部

明治42年(1909年)に、押川春浪や中沢臨川が中心となって、京浜電気鉄道会社に羽田運動場を建設させ、スポーツクラブ「日本運動倶楽部」が設立する。

その一方で、早稲田大学の学生を中心にスポーツ社交団体「天狗倶楽部」を発足しており、吉岡信敬も「天狗倶楽部」に入る。

吉岡信敬は応援隊長で声が大きいので、いかにも強そうだが、喧嘩や運動は駄目で、相撲の対抗戦で、どうしても勝ちたかった「天狗倶楽部」は吉岡信敬と押川春浪を引っ込め、応援に呼んだのが、日本初のオリンピック選手となる三島弥彦らである。

三島弥彦が日本初のオリンピック選手としてストックホルムオリンピックに参加するときも、吉岡信敬が「天狗倶楽部」を代表して鬼百合とナデシコの花束を三島弥彦に贈った。

■晩年

吉岡信敬は大正元年(1912年)早稲田大学を中退した後、大正元年10月に志願して麻布第一連隊に入り、大正2年に除隊して読売新聞に入った。その後、読売新聞を辞めて出版社で働いていたという。

大正3年に押川春浪が死去した後は、「天狗倶楽部」とも疎遠になった。「天狗倶楽部」のメンバーは早稲田大学OBが中心であり、早慶戦を19年間も中止させたことに負い目を感じていたことが原因と言われる。

その後の吉岡信敬については、詳しいことが分からず、昭和15年(1940年)12月7日に死去した。55歳だった。

なお、NHK大河ドラマ「いだてん」の実在のモデル一覧は「大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」のキャストとモデル」をご覧ください。

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