なつぞら-柴田剛男(藤木直人)のモデルは「よつば乳業」の太田寛一

NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する柴田剛男(藤木直人)のモデルは、北海道の乳製品メーカー「よつば乳業」の創業者の太田寛一(おおた・かんいち)です。

■柴田剛男(藤木直人)のネタバレ

柴田剛男(藤木直人)は、奥原なつ(広瀬すず)の父親の戦友で、父親と「生き残った方が家族に手紙を届ける」という約束をしており、戦後、約束を守って父親の手紙を奥原なつ(広瀬すず)に届けに行った。

そこで、柴田剛男(藤木直人)は、奥原なつ(広瀬すず)ら3兄弟が戦争孤児になっていることを知り、奥原咲太郎(岡田将生)に頼まれて奥原なつ(広瀬すず)を引き取り、北海道の柴田牧場へ連れて帰って面倒を見た。

その後、柴田剛男(藤木直人)は農協で働くようになり、冷害に強いビートや酪農をを推奨した。

さらに、弱小農家の牛乳がメーカーに買いたたかれている現状を改善するため、農協が牛乳を収集してメーカーに販売するために奔走する。

義父・柴田泰樹(草刈正雄)は「自分の牛乳は自分で売る」と言い、農協の方針に反対するが、柴田剛男(藤木直人)は婿養子のマスオさんだったので、義父・柴田泰樹(草刈正雄)に何も言えないのだった。

■柴田剛男(藤木直人)の実在のモデル

柴田剛男(藤木直人)のモデルは、北海道の乳製品メーカー「よつば乳業」を創業した太田寛一(おおた・かんいち)です。

どこかで見た眼鏡だなと思ったら、やはり、眼鏡がネタバレになっていたので、比較画像も貼っておきます。
太田寛一と柴田剛男

さて、太田寛一は大正4年(1915年)10月に北海道帯広市川西町で生まれた。父・茂市は岐阜県の出身で、明治末に北海道に移り住んで開拓民となった人である。

父・茂市は大工の棟梁で、働いている大工に頼まれれば、借金をして大工に金を貸すような人で、莫大な借金を抱えていた。

朝ドラ「なつぞら」で、柴田剛男(藤木直人)の母親が医者に診てもらえずに死んだというエピソードがある。

これは太田寛一が小学生の時のエピソードで、太田家は治療代が払えず、医者に借金があったため、母・ハルが病気になったとき、往診に来てもらえず、母ハルは死んでいる。

さて、太田寛一は優秀だったので、教師は太田寛一を進学させようと思い、父・茂市を何度も説得したが、家庭の経済事情が進学を許さず、太田寛一は小学校を卒業すると、家業の農業に従事した。

しかし、当時の農家は全く儲からず、借金の金利さえも払えないので、やがて、太田寛一は借金を返済するために産業組合(後の農協)で働き始めた。

そして、太田寛一は産業組合の「共存共栄」という理念に強く惹かれ、産業組合で頭角を現していくのだった。

一方、父親は太田寛一が産業組合の給料で借金を返済していることを知り、所有していた山林など全てを手放した。

戦後、農業会の理事に就任すると、反対する一部の農民を押さえ込み、ジャガイモ(ばれいしょ)を安く買いたたかれて貧困していた農家のために、デンプン工場を買収した(後の農協の中心事業となる)。

その後、農業会が解散して農協が発足することになるが、農協は農家しか加盟できないため、農地を持たない太田寛一は農協の会員資格が無かった。

そこで、太田寛一は、農業会の専務を辞任して開拓民となり、農協の発足にともなって、農協の理事に就任。その後、37歳の若さで士幌農協の組合長に就任した。

さて、このころ、大豆相場の影響で、十勝の農民は儲かる大豆を作っていたが、大豆は冷害に弱かった。

そこで、太田寛一は、冷害に強いジャガイモやビートを推奨するとともに、酪農や養鶏を推奨した。凶作で豆類が全滅した年だったということもあり、農家の支持を得て、ジャガイモやビートの作付面積を増やすことに成功した。

さらに、太田寛一は最新鋭のデンプン工場を建設した。この工場で生産したデンプンは白いので、カマボコ業者に高く売れた。

その一方で、太田寛一は農家の経営を安定させるため、農協で乳牛を購入して農家に貸し出すという方式を取り入れ、一気に酪農を拡大させた。

このころ、十勝地方の士幌町は明治乳業・雪印乳業・宝乳業の草刈場となっており、各農家は明治乳業・雪印乳業・宝乳業のいずれかに牛乳を販売していたのだが、農家同士は親子でも出荷先が違うというカオスな状況だった。

このようななか、宝乳業が倒産したため、代金を受け取れない農家が続出。明治乳業と雪印乳業は、士幌町での勢力拡大を目指して過激な農家獲得合戦を繰り広げた。

そこで、太田寛一は農民の団結を呼びかけ、士幌農協に牛乳を集めてから業者に販売する「一元集荷多元販売」という方法を提唱した。

すると、農家は明治乳業と雪印乳業のどちらに出荷するのか、ということで対立した。明治の方が出荷価格が高いのだが、雪印は裏価格によって有力農家と強く結びついていたのだ。

士幌農協の太田寛一は、明治と雪印に半分ずつ販売するとして、農家を説得し、昭和31年(1956年)に北海道で初となる「一元集荷多元販売」を開始する。

雪印乳業の方が買い取り価格が安かったので、太田寛一が「出荷量を減らす」と通達すると、雪印乳業も買い取り価格を上げた。

さらに、「一元集荷多元販売」にすることにより、メーカー側は品質検査で脂肪率の割合を下げるという不正を行い、農家から安く牛乳を買いたたいていた事が判明。適正な検査によって牛乳の買い取り価格が上昇したので、太田寛一は農家から大きな信頼を得た。

さらに、太田寛一はデンプン工場を建設した実績が買われ、ホクレン農業協同組合連合会の会長からビート工場の建設を任され、ビート工場も成功させる。

その後、太田寛一は、士幌農協の組合長を退き、十勝区農協組合の会長に就任。ヨーロッパを視察したさい、酪農家が工場を建ててチーズを自作していたのを見て、自分たちの手で製造する工場の必要性を痛感する。

そこで、太田寛一はヨーロッパ視察から帰国すると、秘密裏に8つの農協のトップを集めて説得し、農協の出資で新会社を設立する話をまとめ上げ、誓約書まで作成した。

そして、太田寛一は大手メーカーからの圧力を受けながらも、昭和42年に「北海道協同乳業(よつ葉乳業)」を設立した。誓約書の署名から、わずか40日という早業だった。

これまではメーカー側が牛乳の買い取り価格を決めていたが、「北海道協同乳業(よつ葉乳業)」の誕生により、そうした状況が改善され、農家の所得が増えた。

その後、太田寛一はホクレンを立て直すために、ホクレンの会長に就任したほか、全国農業協同組合連合会の会長なども務め、昭和59年(1984年)11月に死去した。

なお、朝ドラ「なつぞら」のあらすじとネタバレは「なつぞら-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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