エール-佐藤久志(山崎育三郎)のモデルは伊藤久男

NHKの朝ドラ「エール」に登場する佐藤久志(山崎育三郎)のモデルをネタバレします。

■エール-佐藤久志のモデルのネタバレ

NHKの朝ドラ「エール」の佐藤久志(山崎育三郎)のモデルは、福島県出身の歌手・伊藤久男です。

伊藤久男は本名を伊藤四三男と言い、明治43年(1910年)7月に福島県本宮市で、伊藤彌の4男(14人兄弟の7番目)として生まれた。母親は後妻・伊藤チキである。

伊藤家は、福島県の二本松城の城主だった二本松畠山氏の分家筋にあたり、父・伊藤彌は福島県会議長などを務めた地元の名士で、裕福な家庭だった。

伊藤久男は小学生の頃からピアノを習っており、子供の頃から音楽の才能を発揮していた。中学生の時に柔道大会でメダルを貰ったというので、スポーツも万能だったようだ。

伊藤久男はピアニストを志していたが、家族の反対に遭い、家業の農業に従事するため、岩瀬農業高校から東京農大へ進学した。

しかし、ピアニストの夢を叶えるため、東京農大を退学して帝国音楽学校に入学。帝国音楽学校の近くに、福島県出身の作曲家・古関裕而が住んでおり、古関夫婦と交流を持つようになる。

ところが、帝国音楽学校に入学したことが兄に知られてしまい、学費を止められてしまう。

そこで、伊藤久男は、古関裕而の勧めもあり、日本コロムビアの歌手募集に応募し、日本コロムビアのマイナーレーベル「リーガルレコード」からデビュー。その後、メジャーレーベルの「コロムビア」からも「宮本一夫」の名義でレコードを出した。

当時の流行歌手は社会的な地位が低かったので、オペラの先生からも「学費を稼ぐために働くのは仕方がないが、専門家にはなるな。流行歌の専門家になったらお終いだ」と忠告されるほどだった。

しかし、音楽業界には親切な人が居て、「歌手のくせに童貞とは、けしからん」ということで、伊藤久男は遊郭に連れて行ってもらい、歌手になって無事に童貞を卒業した。

こうして、女体の味を知ると、伊藤久男は、転がり落ちるように女遊びをするようになった。

帝国大学の役人の給料が30円だった時代に、レコードに1曲吹き込むと15円をくれるので、月に3~4曲を吹き込めば、贅沢な生活できるのだが、伊藤久男は新橋の芸者と遊んでいたので、全くお金は残らなかった。

さて、伊藤久男は、本気で流行歌に取り組んではいなかったのだが、満州事変の時に、赤坂小梅や渡辺はま子と一緒に、中国の奥地へ慰問に行った。

このとき、兵隊達が自分の歌を聴いて涙を流すのを見て、本気で流行歌に取り組もうと思うようになった。

そして、昭和15年に、伊藤久男の戦時歌謡「暁に祈る」が大ヒットして一躍、全国にその名が知れ渡った。

この「暁に祈る」は、作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而、歌・伊藤久男で、3人が福島県の出身だったことから、3人は「福島トリオ」とか「福島三羽カラス」と呼ばれた。

しかし、実家の伊藤家からすれば、流行歌歌手などゴミのような存在なので、実家から「なってしまったものは仕方がないが、福島で歌ってはならん」と言われていたようだ。

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■結婚

1人目の妻は帝国音楽学校の同級生で、声楽をやっていた女性だった。恋愛結婚だった。

しかし、伊藤久男の母・伊藤チキが嫁いびりの天才だった。1人目の妻は、母・伊藤チキの嫁いびりによってノイローゼになって実家へ戻って療養していたが、3年で離婚した。

2人目の妻は赤坂で芸者をしていた芸者歌手の赤坂百太郎(大西ふさ子)だった。

伊藤久男と赤坂百太郎のゴシップ記事が新聞に載ったので、伊藤久男は日本コロムビアの社長に呼ばれ、「結婚か、辞めるか、どちらかにしろ」と言われたため、赤坂百太郎と結婚した。

後になって、ゴシップ記事を書かせたのが赤坂百太郎だと判明するが、後の祭りである。

その後、赤坂百太郎との間に4人の子供を儲けるが、赤坂百太郎は嫉妬深いので、伊藤久男もまいってしまった。

そこで、伊藤久男は、赤坂百太郎と子供を福島に連れて行き、赤坂百太郎と子供を置いて、自分だけ東京に戻ってきた。

赤坂百太郎が離婚に応じなかったようだが、最終的には時間が解決したらしい。

3人目の妻は、宝塚歌劇団でコーラスをしていた桃園ゆみか(西山あさの)である。

桃園ゆみかとは仕事で出会った。桃園ゆみかが、赤坂百太郎との間に出来た4人の子供を引き取ると言ったので、結婚することにした。

そして、桃園ゆみかとの間にも4人の子供が生まれたので、伊藤久男の子供は計8人である。

■戦後

戦後、伊藤久男は軍事歌謡を歌っていた責任感から酒に溺れ、再起不能とまで言われていたが、昭和22年に「夜更けの街」で歌手に復帰し、昭和24年には全国高校野球大会の大会歌となる「栄冠は君に輝く」を発売した。

さらに、昭和24年に戦後の代表曲となる「イヨマンテの夜」が大ヒットして、第2回NHK紅白歌合戦にも出場し、以降は紅白歌合戦の常連となる。

伊藤久男は、大酒飲みで大食いで、豪快な男だったが、精神的には繊細で、潔癖症だったうえ、大阪のロイヤルホテルでエレベーター落下事故が起きて以降、エレベーターに乗れなくなった。

そして、晩年は糖尿病に悩まされながらもステージに立ち、昭和53年に紫綬褒章を受賞した。

伊藤久男は紫綬褒章など要らず、断っていたのだが、下から「上が貰わないと、順番が回ってこない」と、せっつかれ、仕方なく、紫綬褒章を貰ったので、何の価値も感じていなかった。紫綬褒章よりも、年金の方が嬉しいと言っている。

そして、昭和57年には第24回日本レコード大賞特別賞を受賞したが、翌年の昭和58年(1983年)に肺水腫で死去した。享年72だった。死後、勲四等旭日小綬章受勲が送られた。

なお、伊藤久男の家系図を作ったので、暇な方は「エール-佐藤久志(山崎育三郎)のモデル・伊藤久男の結婚と家系図」もご覧ください。

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