エール-村野鉄男(中村蒼)のモデルは野村俊夫

NHKの朝ドラ「エール」に登場する村野鉄男(中村蒼)のモデルとネタバレです。

■エール-村野鉄男(中村蒼)のネタバレ

村野鉄男(中村蒼)は、魚屋「魚治(うおはる)」の長男で、古山裕一(窪田正孝)の幼なじみである。

村野鉄男(中村蒼)は、喧嘩っ早いガキ大将だが、詩を愛する優しさがあり、後に作詞家として活躍して、古山裕一(窪田正孝)・佐藤久志(山崎育三郎)と共に「福島三羽ガラス」と呼ばれるようになる。

■村野鉄男(中村蒼)のモデルのネタバレ

野村俊夫(本名は鈴木喜八)は、明治37年(1904年)11月21日に福島県福島市大町で、魚屋「魚忠」の3男として生まれた。

野村俊夫はガキ大将として育ち、近所に住む5歳下の古関裕而とも遊んでいたが、魚屋「魚忠」を営んでいた父・鈴木忠八が相場に手を出して失敗したため、引っ越した。

野村俊夫は福島市立第一小学校を卒業して、福島商業学校へと進学したが、病気や家庭の事情により中退し、福島県の富豪・角田林兵衛の家に奉公へ出た。

しかし、隠れて勉強していた事がバレてしまい、奉公先をクビになって実家へ戻り、実家の手伝いを経て、20歳から福島民友新聞社に勤務し、社会部の記者として活躍しながら文芸欄も担当した。

そして、野村俊夫は「福島ハーモニカ・ソサエティー」との関係から、古関裕而と再会し、野村俊夫が「福島行進曲」を作詞し、古関裕而が作曲した。

その後、古関裕而は、イギリスの作曲コンクールで2等に選ばれると、福島民友新聞社の社員のような扱いになり、福島民友新聞の仕事も手がけるようになった。

昭和6年、古関裕而が東京の日本コロムビアの専属作曲家となると、野村俊夫(26歳)は古関裕而の誘いを受け、福島民友新聞社を辞めて上京して、おでん屋「太平楽」を始めた。

この「太平楽」は、野村俊夫が開店したらしいのだが、東京に住んでいた姉が経営していたという話もある。

そして、福島時代に作詞した「福島行進曲」が日本コロムビアに認められ、古関裕而のレコードデビュー曲に採用されて、フリーの作詞家として活動を開始した。

しかし、リベラル派の野村俊夫は、戦争に非協力的な歌ばかりを作っていたので、検閲のブラックリストに載り、ことごとく検閲で却下され、レコードの仕事が出来なくなってしまった。

野村俊夫は結婚しており、34歳の時に次女生まれており、生活のために方針を転換し、35歳の時に、戦時歌謡に路線変更して「ほんとにほんとにご苦労ね」を作詞して、ヒットさせた。

そして、35歳の時に作詞した「上海夜曲」が、歌手・藤山一郎の日本コロムビア復帰第1弾として大ヒットしたため、野村俊夫は日本コロムビアの専属作詞家となり、ようやく生活も安定するよになった。

そして、36歳のときに、代表曲となる「暁に祈る」が大ヒットし、ようやく検閲も緩んだ。

「暁に祈る」を手がけた歌詞・野村俊夫、作曲・古関裕而、歌・伊藤久男の3人が福島県出身だったことから、「福島トリオ」「福島3羽ガラス」と呼ばれて活躍するようになる。

こうして作詞家として活躍する一方で、戦時中は従軍記者としても活躍した。

戦後の昭和23年、野村俊夫(44歳)は、作曲家・古賀政男とのコンビで、戦後のヒット曲となる「湯の町エレジー」を大ヒットさせ、以降は古賀政男とのコンビで数多くの曲を手がけた。

その一方で、ジャスラックの理事に就任し、音楽家の権利拡大に尽力したが、61歳の時に辞任した。

そして、昭和41年に十二指腸潰瘍の手術を受けたが、術後に腸閉塞(もしくは腸捻転)を発症し、昭和41年(1966年)10月27日に死亡した。享年63。

生涯で3000曲、校歌だけでも100曲以上を作詞しており、島倉千代子、美空ひばり、コロムビア・ローズなどにも歌を提供した。最大のヒット曲は戦時中の「暁に祈る」で、戦後最大のヒット曲は「湯の町エレジー」で、この2曲が代表曲である。

なお、朝ドラ「エール」のモデルやネタバレは「エール-あらすじとネタバレ」」をご覧ください。

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