エール-関内音(二階堂ふみ)のモデルは古関金子

二階堂ふみが主演するNHKの朝ドラ「エール」の関内音(せきうち・おと)のモデルのネタバレです。

■エール-関内音(二階堂ふみ)のネタバレ

関内音(二階堂ふみ)は、愛知県豊中市で、馬具を製造販売する関内安隆(光石研)の次女として生まれた。

関内音(二階堂ふみ)はプロ歌手を夢見ていたとき、福島の古山裕一(窪田正孝)がイギリスの作曲コンクールに入賞したという新聞記事を見て、古山裕一(窪田正孝)に手紙を送り、文通を始める。

やがて、2人は結婚。古山裕一(窪田正孝)はプロの作曲家となるが、全く売れずに低迷していた。

しかし、関内音(二階堂ふみ)は古山裕一(窪田正孝)の才能を信じ、音楽大学に入学してプロの歌手を目指しながらも、夫の古山裕一(窪田正孝)を応援するのだった。

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■関内音(二階堂ふみ)のモデルのネタバレ

朝ドラ「エール」の主人公・関内音(二階堂ふみ)のモデルは、作曲家・古関裕而の妻・古関金子です。

古関金子は、明治45年(1912年)3月生まれ、愛知県豊橋市の出身です。

父・内山安蔵は、愛知県豊橋市で馬具の製造をして、陸軍第15師団に納品していました。

古関金子は文学少女で、詩を好んだ他にも、絵や音楽も大好きだったので、日本女子大学の国文科に進学するか、声楽家になることを夢見ていました。

しかし、古関金子が12歳の時に父・内山安蔵が死去してしまいます。母・内山ミツが事業を引き継いだものの、生活は苦しくなるのですが、歌の絶えない家庭でした。

このため、古関金子は、女学校を卒業すると、名古屋で雑誌の仕事をしながら、宝塚歌劇団を目指して、歌の勉強をしました。

昭和5年(1930年)、古関金子は、福島県の古関裕而がイギリスの作曲コンクールに入賞したという新聞記事を見て、手紙を送り、古関裕而と文通を開始しました。

このとき、古関裕而は川俣銀行で働いており、作曲家としては無名で、作曲コンクールの入賞して、5年間のイギリス留学というビックチャンスを得たところでした。

しかし、古関裕而は留学している間に、他の男に古関金子を取られるのではないかと心配し、イギリス留学を断念して、古関金子と結婚する道を選びます。

古関裕而が愛知県豊橋市を訪れてプロポーズして、そのまま婚前旅行に出て、2人は結婚しました。

古関裕而が21歳、古関金子が18歳のことです。

結婚までの期間はわずか3ヶ月で、交際と言ってもほとんど文通だけだったため、周囲を驚かせる電撃結婚でした。

さて、古関金子は古関裕而と結婚して、古関裕而の実家の倉で新婚生活を始めたのですが、古関裕而は結婚前に川俣銀行を辞めており、ニート状態でした。

古関裕而はイギリスの作曲コンクールで入賞したにもかかわらず、日本の音楽界は無反応で音楽の仕事の依頼はありませんでした。

そこへ、幸運なことに、日本コロムビアから専属契約が舞い込んできました。

山田耕搾が日本コロムビアに古関裕而を推薦してくれたのです。

古関金子が声楽の勉強をしたがっていたこともあり、古関裕而は日本コロムビアの専属になることに決め、夫婦で上京しました。

こうして、上京した古関金子は昭和6年(1931年)に帝国音楽学校に入学し、本格的に声楽の勉強を始めました。

しかし、昭和7年1月に長女が生まれ、昭和9年に次女も生まれたため、声楽家の夢を断念します。

戦後、古関金子は、声楽の勉強を再開始します。古関金子は日本では珍しいドラマチック・ソプラノの持ち主で、関係者の間で高い評価を得ていました。

このため、古関裕而は周囲から、古関金子のために曲を作るように助言され、昭和24年にオペラ「朱金昭」など3作を作りました。

古関金子は古関裕而の作ったオペラ3作に出演し、NHKで放送されて高い評価を得たのですが、昭和21年に長男が生まれていたので、子育てが忙しく、オペラ3作を最期に声楽家から引退しました。

その後、古関金子は乳がんが判明し、2度の手術を受けたのですが、4年間の闘病生活の末、昭和55年(1980年)7月に死去しました。68歳でした。

なお、朝ドラ「エール」のあらすじとネタバレは「エール-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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