「エール」のモデル古関裕而と古関金子の家系図と子供のネタバレ

NHKの朝ドラ「エール」のモデルとなる古関裕而と古関金子の家系図と子供のあらすじとネタバレです。

■古関金子と古関裕而の家系図

古関金子と古関裕而の家系図

■父・古関三郎治(古関三郎次)の家系

古関裕而の古関家は東京の出身で、江戸時代の初期ごろに、福島へと移り住み、福島で呉服屋「喜多三(きたさん)」を営み、財をなした。

古関家は古関三郎治を襲名しており、信夫山の祓川橋や灯籠などを寄贈し、地域に貢献してきた。

古関裕而の父・古関三郎治は、古関家7代目の当主で、従業員を十数人使い、「喜多三」を福島市で有数の呉服屋に繁盛させていたが、大正11年ごろに他人の債務保証問題もあって倒産した。

その後、7代目・古関三郎治は、大正13年に「喜多三」を移転し、質屋と京染めの取り次ぎをして、細々と商売を続けた。

■母・古関ヒサの家系

古関裕而の母・古関ヒサは、福島県川俣町の富豪・武藤茂平の三女として生まれた。

この武藤家は、福島県川俣町で味噌や醤油を醸造する「ちりめん屋」を営んでおり、かなりの資産家だった。

武藤家は、代々、武藤茂平を襲名しており、古関ヒサの兄・武藤茂平が川俣銀行で頭取を務めており、古関裕而を川俣銀行で雇った。ただ、川俣銀行は、それほど大きな銀行では無かったようだ。

■古関裕而

古関裕而は、古関家の8代目当主。両親は子供が出来ず、養子を貰おうとした時に古関裕而が生まれたので、大変かわいがられて育った。

古関裕而は、長男なので、呉服屋「喜多三(きたさん)」を継ぐため、福島商業高校へ進学したが、呉服屋「喜多三」が倒産したため、家業を継ぐ必要がなくなった。

そこで、古関裕而は叔父が経営する川俣銀行で働きながら、音楽を続け、川俣銀行に在籍中に、「竹取物語」など5曲がイギリスの作曲コンクールで2等賞を取るという快挙を成し遂げた。

この新聞報道が切っ掛けで、古関裕而は古関金子と文通を開始し、わずか3ヶ月の文通で結婚して、日本コロムビアと専属契約した。

古関裕而はヒット曲を出せずに日本コロムビアをクビになりかけたが、古賀政男に助けられて命拾いし、昭和9年に「利根の舟歌」が初ヒットとなり、クビを免れた。

そして、昭和15年の「暁に祈る」が大ヒットして全国的に名前が知れ渡り、以降、数々の名曲を世に送り出した。

■妻・古関金子の家系

古関裕而の妻・古関金子の父親は内山安蔵と言い、陸軍の獣医部で働いていたが、退職後に陸軍の御用商人となり、愛知県豊橋市で蹄鉄を作る工場を始め、豊橋市の陸軍第十五師団に蹄鉄などを納めていた。

従業員も多かったというので、かなり裕福な家庭だったようだが、父・内山安蔵は古関金子が12歳の時に死んでしまった。父・内山安蔵の死後は、妻の内山ミツが事業を縮小して引き継いだ。

古関金子は、日本女子大学の国文科に進学するか、音楽家になりたいと思っていたが、父親が死去したので、豊橋高等女学校を卒業すると、名古屋で知人の雑誌を手伝いながら、宝塚歌劇団を目指して歌の勉強を始めた。

そのようななか、古関裕而の「竹取物語」など5曲が、イギリスの作曲コンクールの2等に選ばれたという新聞記事を見て運命を感じ、古関裕而に手紙を送り、文通を開始して、3ヶ月後に古関裕而と結婚する。

その後、東京に出て声楽を勉強し、オペラなどに出演して高い評価を得ていたが、戦後、育児などを理由に声楽から引退した。絵や詩にも才能を発揮した。

■古関裕而と古関金子の子供

長女・古関雅子は昭和7年1月に生まれた。次女の古関紀子(こせき・みちこ)は昭和9年7月に生まれた。

長男の古関正裕(こせき・まさひろ)は、戦後の昭和21年7月生まれ。長男の古関正裕が古関家の9代目当主である。

古関正裕は小学校のころからピアノを習い、学生時代はバンド「ヴィレッジ・シンガーズ」を結成して、音楽大学へ進学を考えていた。

しかし、自作した曲を父・古関裕而に見せると、「頭で考えて作っているね」と言われ、音楽では父親を超えられないと思い、大学は数学科へと進み、新聞社に就職して、オンライン情報システムの設計などを担当した。

そして、新聞社を退職後、音楽ユニット「喜多三(きたさん)」を結成して、父・古関裕而の曲を演奏している。

なお、朝ドラ「エール」のモデルやネタバレは、「エール-あらすじ」をご覧ください。

スポンサードリンク

コメントを投稿する