おちょやん-竹井千代(杉咲花)のモデルは浪花千栄子

NHKの朝ドラ「おちょやん」の竹井千代(杉咲花)のモデルのネタバレです。

■竹井千代(杉咲花)のあらすじ

竹井千代(杉咲花)は大阪の貧しい家庭に生まれ、小学校も満足に通えず、9歳の時に奉公に出された。

奉公先が芝居小屋で、竹井千代(杉咲花)は芝居小屋の女中として働き始めるが、華やかな芝居の世界に魅せられ、奉公先を逃げ出して京都で女優となり、その後、大阪の劇団「鶴亀家庭劇」に参加した。

竹井千代(杉咲花)は劇団「鶴亀家庭劇」で、喜劇俳優の天海一平(成田凌)と出会って結婚し、喜劇女優として活躍したが、空襲で「鶴亀家庭劇」は消滅してしまう。

戦後、「鶴亀家庭劇」は劇団「鶴亀新喜劇」として復活したが、夫の天海一平(成田凌)が不倫をしたため、竹井千代(杉咲花)は離婚して芸能界から引退した。

しかし、エンタツ・アチャコのラジオドラマに出演し、12人の子供を持つお母さん役を演じると、大きな反響を呼び、「大阪のお母さん」として人気を博し、大阪を代表する女優になるのだった。

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■竹井千代(杉咲花)のモデルのネタバレ

竹井千代(杉咲花)のモデルは、大阪を代表する女優・浪花千栄子です。

下の写真の左側が竹井千代(杉咲花)で、右側がモデルの浪花千栄子です。目元に違いがありますが、雰囲気は似ています。
おちょやん-竹井千代(たけい・ちよこ)のモデル

さて、浪花千栄子(本名は南口キクノ)は、明治40年(1907年)11月19日に大阪府南河内郡東板持町で養鶏業を営む南口家に生まれました。村で一番貧乏な家庭でした。

浪花千栄子は、4歳の時に母親が死んだので、弟の面倒をみなければならず、小学校に通えませんでした。

父親はイケメンだったのですが、非常にスケベだったので、女のケツばかり追いかけており、飲み屋の仲居さんと再婚しました。

浪花千栄子は、新しい母親が出来たので、家事から解放され、小学校へ通えるようになったのですが、新しい母親は家事も何もせず、2銭の月謝もくれなかったので、小学校は2ヶ月で辞めました。

さらに、新しい母親の差し金で、浪花千栄子は祖母に預けられたのですが、困った祖母は8歳の浪花千栄子を大阪・道頓堀の仕出し料理屋「浪花料理」に女中奉公に出しました。

「浪花料理」の向かいに芝居茶屋「岡嶋」があり、浪花千栄子は女中奉公時代に、「岡嶋」に居候していた渋谷天外と出会います。

さて、浪花千栄子は、誰も長続きしないと言われた「浪花料理」で、厳しい虐めにも耐え、女中生活も8年目を迎え、16歳なりました。

そのようなななか、父親が「浪花料理」に現われました。

父親は、女に使うお金が足りなくなったのか、浪花千栄子の貯金を目当てに来たのですが、浪花千栄子は食事と着物を支給されるだけで、給料を貰っていなかったので、貯金などありませんでした。

怒った父親は警察に訴えると脅して、「浪花料理」から15円を受け取ると、浪花千栄子を他の奉公先へ入れました。

浪花千栄子は、新しい奉公先で大切にされたのですが、給料を貰えませんでした。奉公先の主人が貯金をしてくれているのだと思っていたのですが、父親が自分の給料2年分を前金で受け取っていたのです。

浪花千栄子は、18歳の時に父親が給料を搾取していた事を知り、奉公先を逃げ出して、京都へと向かいました。

そして、京都で、お屋敷奉公の仕事を探したのですが、親の証明書が無ければ無理だと言われ、兵隊を相手にするカフェー「オリエンタル」を紹介され、女給として採用されました。

このカフェーは売春もしており、浪花千栄子も客を取ることになったのですが、その当日に女給のユリちゃんに助けられて、カフェーを辞めました。

ユリちゃんは女優志望だったので、一緒に女優になろうと誘われました。

浪花千栄子は、お屋敷奉公がしたいので、断ったのですが、他に頼る人も居ないので、ユリちゃんと一緒に無名のプロダクションに入り、女優となりました。18歳の秋の事です。

しかし、このプロダクションは映画を撮ることなく潰れてしまいまい、監督の紹介で村田栄子一座に入りました。

浪花千栄子は、女優になどなりたくないので、村田栄子一座で女中の仕事をしていたのですが、ひょんなことから舞台に上げられ、村田栄子一座のスター女優となるのでした。

(この経緯が知りたい方は「おちょやん-高城百合子(井川遥)のモデルとネタバレ」をご覧ください。

しかし、師匠の村田栄子は浪花千栄子に厳しく当たるので、見かねた劇場主が東亜キネマを紹介してくれ、浪花千栄子は映画女優となりました。

その後、浪花千栄子は紆余曲折を経て松竹の専属女優となり、昭和3年に曾我廼家十吾と渋谷天外が旗揚げした「松竹家庭劇」に助っ人として出演し、昭和5年に松竹の命令で「松竹家庭劇」に配属されました。

そして、昭和5年、23歳の時に「松竹家庭劇」の渋谷天外と結婚しました。渋谷天外は自他共に認める女好きでした。

「松竹家庭劇」は直ぐに解散していまうのですが、松竹の主導で昭和7年に「松竹家庭劇」が再建されました。

しかし、夫の渋谷天外が脚本を書いていた関係で、浪花千栄子は良い役が貰えず、誰もが嫌がるような役ばかりやらされ、不遇の時代を迎えます。

さて、渋谷天外は、曾我廼家十吾と度々、対立しており、戦後の昭和23年に「松竹家庭劇」を退団して旅巡業に出ます。浪花千栄子も夫・渋谷天外に付いていきました。

しかし、昭和23年に曾我廼家五郎が死去すると、松竹は「曾我廼家五郎劇」と「松竹家庭劇」を合併して、「松竹新喜劇」を発足。渋谷天外と浪花千栄子も呼び戻され、「松竹新喜劇」の発足に加わりました。

こうして、浪花千栄子は「松竹新喜劇」の花形女優となったのですが、夫・渋谷天外が「松竹新喜劇」の女優・九重京子と不倫をして、子供を作りました。

44歳にして待望の子供を抱いた夫・渋谷天外は、何もかもを捨てて不倫相手に走ったため、子供が出来なかった浪花千栄子は離婚し、「松竹新喜劇」を辞め、芸能界からも引退しました。44歳の事でした。

ところが、4ヶ月後に浪花千栄子を激怒させる事が起きます。

浪花千栄子は20年間も尽くし続けても、家を買って貰えなかったのに、渋谷天外は再婚4ヶ月で不倫相手の九重京子に家を買ったのです。

浪花千栄子は、これに激怒し、庭の敷石の裏に渋谷天外の名前を彫って、毎日、渋谷天外の名前を踏み続けました。

さて、浪花千栄子の引退に喜んだのが、花菱アチャコでした。花菱アチャコは、大阪弁のしゃべれる相手役を捜しており、浪花千栄子を捜し出してラジオドラマ「アチャコ青春手帖」に母親役として出演させます。

この母親役が大当りして、花菱アチャコとコンビで、「アチャコほろにが物語・波を枕に」「お父さんはお人好し」などに出演して、「大阪のお母さん」として親しまれました。

そして、浪花千栄子の本名が「南口(なんこう)キクノ」だったので、「軟膏、効くの」という駄洒落から、オロナインH軟膏の看板に起用されました。

その一方で、映画「夫婦善哉」「蜘蛛巣城」「宮本武蔵」などに出演して大阪を代表する女優となり、映画界でも活躍したのですが、昭和48年(1973年)12月22日に死去しました。66歳でした。

なお、朝ドラ「おちょやん」のあらすじとネタバレは「おちょやん-あらすじとモデルのネタバレ」をご覧ください。

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