エール-木枯正人(こがらし・まさと)のモデルは古賀政男

NHKの朝ドラ「エール」に登場する木枯正人(野田洋次郎)のモデルとなる古賀政男のネタバレです。

■木枯正人(野田洋次郎)のモデルは古賀政男

木枯正人(こがらし・まさと)

木枯正人(野田洋次郎)のモデルとなる古賀政男は、明治37年(1904年)に福岡県三潴郡田口村で生まれました。

古山裕一(窪田正孝)のモデルとなる古関裕而は、明治42年生まれなので、古賀政男の方が5歳年上になります。

さて、古賀政男は、7歳の時に父親が死に、兄の居る朝鮮半島へと渡り、京城善隣商業学校時代に兄からマンドリンをもらい、マンドリンを始めました。

マンドリンとは、ギターを小さくしたようなイタリアの弦楽器です。厳密に言うと、ギターやウクレレとは違う楽器です。

さて、少年時代を挑戦で過ごした古賀政男は、京城善隣商業学校を卒業すると、帰国して、大阪の商店で働きました。

このため、「古賀政男は韓国人だった」という説が流れましたが、本人は韓国人説を否定していたと思います。

さて、古賀政男は大阪の商店で働いた後、明治大学の予科に入学し、マンドリンクラブの創設に関わりました。

明治大学を卒業後、音楽活動を続け、昭和6年に日本コロムビアの専属作曲家となります。古賀政男は文芸部の社員を希望していたのですが、最終的に専属の作曲家となります。

時を同じくして日本コロムビアに入社したのが、古山裕一(窪田正孝)のモデルとなる作曲家・古関裕而です。

日本コロムビアは、古関裕而と古賀政男を天秤にかけ、駄目だった方を切り捨てるつもりで、2人を入社させたのです。

さて、日本コロムビアに入った古賀政男は、歌手・藤山一郎とのコンビで「酒は涙か溜息か」を大ヒットさせます。

しかし、歌手・藤山一郎は東京音楽学校の学生で、レコードの吹き込みは校則で禁止されてしまった。

このため、歌手・藤山一郎は学校に隠れてレコードを吹き込んでいたのですが、「酒は涙か溜息か」が大ヒットしてしまったせいで、学校側にバレてしまい、停学処分となってしまいます。

こうして、歌手・藤山一郎は歌手活動を止めて学生に戻ったので、古賀政男は藤山一郎を失って人気が失速してしまうのでした。

一方、古関裕而は全くヒット曲がでないので、クビになりかけていたのですが、古賀政男が日本コロムビアに「芸術家にスランプはつきものだ。それを理由に契約を左右されたら、安心して作曲出来ない」と抗議し、古関裕而を助けました。

その後、古賀政男はライバル会社「テイチク」へ移籍し、再び歌手・藤山一郎とのコンビで数々のヒット曲を飛ばした後、日本コロムビアへと復帰します。

こうして、古賀政男は人気の作曲家として活躍していたのですが、戦争色が濃くなり、戦時歌謡が流行するようになると、ヒット曲が書けなくなり、戦時中は低迷します。哀愁漂う古賀メロディーは、戦時歌謡と合わなかったのです。

これに対して、古山裕一(窪田正孝)のモデル古関裕而は、流行歌が苦手で低迷していたのですが、古関メロディーは戦時歌謡とは相性が良く、戦時歌謡の「露営の歌」「暁に祈る」を作曲して大ヒットを飛ばし、一流作曲家の仲間入りを果たしました。

戦後は明るい歌がヒットしており、古賀政男は哀愁漂う古賀メロディーでは辛気くさくてヒットしないと思って諦めていました。

ところが、村野鉄男(中村蒼)のモデル野村俊夫と手がけた「湯の町エレジー」が予想外の大ヒットして、一転して人気作曲家に復帰し、美空ひばり・島倉千代子・小林幸子などにもヒット曲を提供しました。

そうした一方で、「古賀ギター歌謡協会」を設立したり、日本作曲家協会の創設に尽力して、日本作曲家協会の会長に就任。大正琴の普及にも尽力しました。

このため、朝ドラ「エール」でも、木枯正人(野田洋次郎)は古山裕一(窪田正孝)のライバルでもあり、友でもあるという感じで描かれるでしょう。

なお、朝ドラ「エール」のあらすじやネタバレは「朝ドラ『エール』のモデルとあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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