朝ドラ「エール」-団長・田中隆(たなか・たかし)のモデル

NHKの朝ドラ「エール」に登場する早稲田大学応援団長・田中隆(三浦貴大)のモデルのネタバレです。

■エール-田中隆(三浦貴大)のモデル

田中隆(三浦貴大)
早稲田大学応援部の第5代団長として登場する田中隆(三浦貴大)のモデルは、古関裕而に「紺碧の空」の作曲を依頼した応援団員(副団長)・高山三夫で間違いないでしょう。

この高山三夫は、タモリ(森田一義)の媒酌人を務めた人物です。

タモリは、早稲田大学を中退後、芸能界に入る前に朝日生命で保険外交員をしていた時期があり、このころ、高山三夫と知り合ったようです。

そして、タモリは朝日生命時代に同僚と結婚するのですが、その媒酌人を務めたのが高山三夫でした。

その後、タモリは福岡県のボーリング場で働くのですが、この仕事を世話したのも高山三夫でした。

なお、早稲田大学応援団関係者は、当時の団長・溝口五郎をモデルだとしていますが、当サイトでは田中隆(三浦貴大)が九州出身という点も踏まえて、総合的に高山三夫がモデルだと判断しました。

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■エール-田中隆の実話のネタバレ

昭和の初期は、まだプロ野球も無かったので、早稲田大学と慶應義塾大学の野球対決「早慶戦」が全国的な注目を集めていました。

そのようななか、早稲田大学は昭和5年度の早慶戦で慶應義塾大学に惨敗してしまいました。

すると、早稲田大学の応援部は、応援歌で負けているから野球も負けるんだと言いだし、新しい応援歌を募集して、早稲田大学高等師範部3年生・住治男の「紺碧の空」を応援歌の歌詞に選びました。

しかし、住治男の「紺碧の空」に曲を付けるのは難しいため、歌詞の選考を務めた西條八十が、大金を積んで有名な作曲家に依頼するように助言しました。

それを聞いた高山三夫は「先生は早稲田の教授でしょう。早稲田に生きるものが金銭的にはかるとは何事ですか」と一喝したそうです。

さて、応援団では誰に曲を依頼するかが問題になります。早稲田大学は既に有名な作曲家だった中山晋平や山田耕搾に応援歌を作って貰っているのですが、ライバルの慶應義塾に勝っていませんでした。

そこで、応援部の幹部・伊藤茂が、古山裕一(窪田正孝)のモデルである古関裕而に作曲を依頼することを主張しました。

当時、古関裕而は日本コロムビアの専属作詞家として契約したばかりで、仕事も無く自宅待機しており、無名の新人でした。

しかし、伊藤茂は、佐藤久志(山崎育三郎)のモデル伊藤久男の従兄弟だったため、古関裕而の事を知っていたのです。

当然、無名の作曲家なので、反対も多かったのですが、伊藤茂が「実績は無いけど、未来はある」と言って応援部員を説得してまわり、古関裕而に「紺碧の空」の作曲を依頼する事が決まりました。。

古関裕而は「紺碧の空」の作曲を引き受けたのですが、応援歌を手がけるのは初めてなので、思うように作曲は進みません。

田中隆(三浦貴大)のモデル高山三夫らは、応援歌によって早稲田大学の運命が左右されるので、機が機では無く、連日のように古関裕而の部屋に詰めかけました。

関内音(二階堂ふみ)のモデル古関金子は、大男7~8人が毎日のように部屋に押し寄せてきて、部屋の中でウロウロとするので、部屋の床が抜けるのではないかと心配したそうです。

その後、古関裕而は発表会の3日前に曲を完成させると、応援部から「難しすぎる」という意見が出たのですが、古関裕而は自信があったので、変更せずに発表しました。

その結果、早稲田大学は早慶戦で大勝利し、「紺碧の空」と共に古関裕而の名前が広まりました。

これが切っ掛けで、古関裕而は「日米野球行進曲」「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」などのほか、読売ジャイアンツや中日ドラゴンズの歌を作曲することになります。

なお、右足を負傷して甲子園を断念した親友・清水誠二のエピソードのモデルについては「エール-清水誠二(しみず・せいじ)のモデルとネタバレ」をご覧ください。

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コメント欄

「高山三夫で間違いでしょう」って、それを言うなら「間違いないでしょう」でしょ。
アップする前に一度読み返しましょう。

  • 投稿者-
  • 珍駆

ご指摘ありがとうございます。できるだけ、誤字脱字の無いように努力いたします。

  • 投稿者-
  • 管理人