エール-高梨一太郎(たかなし・いちろうた)のモデルは高橋掬太郎

NHKの朝ドラ「エール」に登場する高梨一朗太(たかなし・いちろうた)のモデルとネタバレです。

■エール-高梨一朗太のネタバレ

高梨一朗太は「酒は涙か溜息か」を作詞した作詞家で、木枯正人(野田洋次郎)の作曲、山藤太郎(柿澤勇人)の歌で、「酒は涙か溜息か」を大ヒットさせた。

その後、高梨一朗太は、古山裕一(窪田正孝)が作曲した「福島行進曲」を気に入り、新作「船頭可愛や」の作曲を古山裕一に依頼した。

古山裕一は「船頭可愛や」に曲を付けて、ディレクターの廿日市誉(古田新太)に見せると、廿日市誉は歌詞が高梨一朗太だったので、これは売れるといい、レコード化を決定した。

しかし、「船頭可愛や」はヒットしなかったので、廿日市誉は古山裕一に契約解除と契約金の返還を迫ります。

困った関内音(二階堂ふみ)が世界的なオペラ歌手・双浦環(柴咲コウ)に相談すると、双浦環(柴咲コウ)は「船頭可愛や」を聞いて気に入り、「船頭可愛や」をレコードに吹き込むことにした。

すると、大物作曲家の小山田耕三(志村けん)が、反対してコロンブスレコードに圧力をかけた。

しかし、双浦環は、小山田耕三が古山裕一の才能を恐れているのだと言い、「船頭可愛や」をレコードに吹き込み、「船頭可愛や」は大ヒットするのでした。

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■エール-高梨一太郎のモデルのネタバレ

高梨一太郎のモデルは、「船頭可愛や」を作曲した高橋掬太郎です。

高橋掬太郎は、明治34年4月に北海道根室郡根室町で生まれ、根室商業学校を中退して私塾に通って国文学を学ぶようになりました。

大正9年に、根室新聞社に記者として入社し、「高橋春波」のペンネームで文筆活動を開始しました。

大正11年に、函館日日新聞に転職し、函館日日新聞時代に作曲家としてデビューしました。

そして、昭和6年に「酒は涙か溜息か」「私此頃憂鬱よ」を作詞し、少し話題になりかけていた新人の作曲家・古賀政男に「酒は涙か溜息か」を提供します。

この「酒は涙か溜息か」を歌ったのが、帝国音楽学校の藤山一郎で、「酒は涙か溜息か」が100万枚の大ヒットとなります。

また、「私此頃憂鬱よ」は、無名時代の淡谷のり子が歌い、この「私此頃憂鬱よ」も大ヒットします。

(注釈:「酒は涙か溜息か」がレコードのA面で、「私此頃憂鬱よ」がB面でした。)

これを切っ掛けに、昭和8年に、高橋掬太郎は函館日日新聞を退職して上京し、作詞家として活動を開始するのですが、ヒット曲が続かず、低迷してしまいます。

そこで、高橋掬太郎は昭和9年、同じくヒット曲が出ずに契約解除に怯えていた作詞家の古関裕而に「ヒット曲を作るため、取材旅行に出よう」と誘い、茨城県の潮来を訪れます。

そして、高橋掬太郎が「利根の舟唄」と「河原すすぎ」を作詞し、古関裕而が2曲を作曲しました。

この「利根の舟唄」がヒットし、古関裕而は日本コロムビアと専属契約して4年目にして、ようやく初ヒットを出す事ができ、契約解除を怯える日々から解放されました。

さらに、高橋掬太郎は昭和10年に「船頭可愛や」を作詞し、古関裕而が作曲します。歌は下駄屋の主婦から歌手になった音丸が担当しました。

この「船頭可愛や」が26万枚の大ヒットで、古関裕而の初の大ヒットとなります。

日本ビクターの社長は大喜びし、古関裕而の累積赤字をチャラにして、レコードの1枚目から印税を払うようになりました。

さらに、昭和14年に、双浦環(柴咲コウ)のモデルとなる世界的なオペラ歌手・三浦環が「船頭可愛や」を聞いて気に入り、日本コロムビアのクラシック部門の青レーベルからレコードを出しました。

古関裕而は、妻・金子が尊敬している三浦環がレコードに吹き込んでくれたので、小躍りして喜び、「月のバルカローラ」を作曲してプレゼントすると、三浦環が「月のバルカローラ」もレコードに吹き込んでくれました。

さて、高橋掬太郎は「船頭可愛や」以降もヒット曲を出すのですが、「酒は涙か溜息か」や「船頭可愛や」を超えるようなヒット曲は出ませんでした。

戦後は、「日本音楽著作家組合」「日本民謡協会」「日本詩人連盟」の設立に参加して要職を歴任し、昭和43年に紫綬褒章を受章したのですが、高橋掬太郎は昭和45年(1970年)4月9日死去しました。

朝ドラ「エール」の高梨一太郎は、昭和10年の「船頭可愛や」で登場するのですが、史実では昭和9年に古関裕而と「船頭可愛や」「河原すすぎ」を手がけています。

なお、朝ドラ「エール」のあらすじとネタバレは「エール-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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