エール-館林信雄(たてばやし・のぶお)のモデルは橘登

NHKの朝ドラ「エール」に登場する館林信雄(川口覚)のモデルを紹介します。

■エール-館林信雄のあらすじ

館林信雄(川口覚)は、福島の若者達で作る「ハーモニカ倶楽部」の会長で、朝ドラ「エール」の3週のあらすじに登場します。

館林信雄は、東京の音楽学校を卒業し、プロの音楽家を目指していたが、兄が病気になったため、実家の旅館を継ぐことになり、音楽の道を諦めて、次の演奏会を最後にハーモニカ倶楽部からも引退することにした。

館林信雄を目標としていた古山裕一(窪田正孝)は、「プロを目指すって言ってたじゃないですか」と落ち込むと、館林信雄は「君は本気でプロを目指してたのか?本格的に音楽の勉強もしたことが無いのに」と馬鹿にした。

ハーモニカ倶楽部の演奏会で使用する曲は、投票で決めることになっていたが、館林信雄だけしか曲を提出しておらず、このままでは館林信雄の曲に決まろうとしていた。

そこで、馬鹿にされて怒った古山裕一は館林信雄の当選を阻止して、自分の才能を示すため、曲を作って応募し、館林信雄と対決した。

そして、投票の結果、古山裕一の曲が選ばれて、古山裕一は喜ぶが、自分が勝てたのは、館林信雄のおかげだと知る。

館林信雄は古山裕一の才能を認めており、次の会長に指名し、演奏会が終わると、ハーモニカ倶楽部から引退したのだった。

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■エール-館林信雄のモデルは橘登

朝ドラ「エール」に登場するハーモニカ倶楽部の会長・館林信雄のモデルは、福島県の橘登(たちばな・のぼる)です。

今でこそ、ハーモニカはマイナーな楽器ですが、当時はハーモニカのプロが居るほど、人気の楽器でした。

当時はピアノやオルガンは高くて買えないので、子供はみんなハーモニカを吹いていたのです。現在の小学生が縦笛を持っている感じでした。

さて、橘登は明治36年生まれなので、古関裕而よりも5歳年上になります。

橘登は蕎麦屋「広瀬庵」の次男だったのですが、音楽に魅了されて音楽のプロを目指し、福島商業学校を卒業後も家業をそっちのけで音楽に取り組み、大正10年に「福島ハーモニカ団」を結成しました。

当初は、紋付き袴で独奏するという奇抜な演奏会を開いていたのですが、大正11年に「福島ハーモニカ・ソサエティー」へと改称して吹奏を取り入れ、ハーモニカの吹奏で全国優勝を果たして、全国的に有名なハーモニカバンドへと成長します。

古関裕而は、家業の呉服屋「喜多三」を継ぐために、福島商業学校へ進学したのですが、入学して間もなく、実家の呉服屋「喜多三」が倒産したため、家業を継ぐ必要がなくなりました。

そこで、古関裕而は大好きな音楽に熱を入れ、大正12年に憧れの「福島ハーモニカ・ソサエティー」に参加するようになりました。

古関裕而は、勉強をそっちのけで、ハーモニカばっかり吹いていたため、2年生の時に留年するほどで、「福島ハーモニカ・ソサエティー」時代に多くを学び、古関メロディーの基礎を築きました。

そして、「福島ハーモニカ・ソサエティー」は、演奏会やNHK仙台放送局の放送などに出演し、福島県にハーモニカ文化を広めました。

マイナーな楽器であるハーモニカが現在も福島県で盛んに演奏されている理由は、昭和初期に「福島ハーモニカ・ソサエティー」が活躍したからです。

しかし、創始者の橘登は、兄の急死により、家業の蕎麦屋「広瀬庵」を継ぐことになったので、楽譜を全て燃やしてプロの道を諦め、昭和7年に「福島ハーモニカ・ソサエティー」を解散し、蕎麦屋「広瀬庵」の仕事に専念しました。

解散後、「福島ハーモニカ・ソサエティー」に居た斎藤金次郎が、メンバーを再集結して「福島ハーモニカ合奏団」を発足しました。

しかし、活動は縮小していたようで、一時活動休止を経て現在は「福島県ハーモニカ協会」として存続しています。

このように、朝ドラ「エール」では、館林信雄が古山裕一(窪田正孝)を次の会長に指名しているのですが、史実では橘登が「福島ハーモニカ・ソサエティー」を解散させています。

なお、朝ドラ「エール」の実話や解説は「エール-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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