おちょやん-須賀廼家千之助(ほっしゃん)のモデルとネタバレ

NHKの朝ドラ「おちょやん」に登場する須賀廼家千之助(すがのや・せんのすけ)のモデルのネタバレです。

■須賀廼家千之助のモデルとネタバレ

須賀廼家千之助(ほっしゃん)は、世界で一番、面白いのは自分だと自負する喜劇界のアドリブ王で、竹井千代(杉咲花)天海一平(成田凌)の師匠であり、ライバルという存在です。

須賀廼家千之助(ほっしゃん)のモデルは、アドリブ王として活躍した喜劇俳優の曾我廼家十吾です。

曾我廼家十吾は「お婆さん」役が当たり役で、「アットン婆さん」という芝居を18番にしていました。
曾我廼家十吾の「アットン婆さん」

曾我廼家は「そがのや」と読みます。十吾は「とうご」でも「じゅうご」でも好きに読んでくださいと、本人が言っています。

さて、曾我廼家十吾は、明治24年(1891年)生まれで、渋谷天外よりも15歳年上です。

曾我廼家十吾は、父親が兵庫県神戸市で新聞配達の仕事をしていたので、子供の頃から新聞配達をしながら、大道芸のモノマネをしていました。

そのようななか、大門亭大蝶一座は、子役が急病で出演できなくなって困ります。

すると、新聞配達の面白い子供が居るというので、8歳の曾我廼家十吾に子役の代役を頼みました。

これが切っ掛けで、曾我廼家十吾は「大門亭文蝶」という名前をもらい、大門亭大蝶一座に出演するようになります。

この大門亭大蝶一座が、「俄」(仁輪加/にわか)と呼ばれる即興芝居をしていたので、曾我廼家十吾は後に「アドリブ王」と呼ばれる下地が出来ていきます。

その後、曾我廼家十吾は、尾上和田蔵の弟子を経て、曾我廼家十郎の弟子となり、「曾我廼家文福」を名乗ります。

しかし、しばらくすると、曾我廼家十郎の元を飛び出して、色々な一座を転々とします。

このころ、曾我廼家十吾は、気に入らないことがあると、直ぐに居なくなるので「ドロンの文吾」と呼ばれていました。

やがて、大正14年11月に師匠の曾我廼家十郎が死去すると、ライバルだった曾我廼家五郎が喜劇界の頂点に立ちます。

そして、曾我廼家五郎が、昭和2年4月に曾我廼家十郎の追善興行を主催しました。

曾我廼家十吾は、この追善興行に参加するため、「曾我廼家五郎劇」に入ると、松竹の勧めで改名し、「曾我廼家十五」を名乗るのですが、不満も重なったので1年で辞めます。

「十五」という名前は、十郎の下に五郎が来るので、「十五」という名前に不満を持っていた曾我廼家五郎は、辞めた曾我廼家十吾に名前を返すように迫りました。

そこで、曾我廼家十吾は、「十五」を返上し、本名の「西海文吾」の「吾」を使い「十吾」としました。

そして、曾我廼家十吾は昭和3年(1928年)9月に松竹の支援を得て「松竹家庭劇」を旗揚げしました。曾我廼家十吾が37歳の事です。

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■渋谷天外や浪花千栄子との関係

朝ドラ「おちょやん」に登場する天海一平(成田凌)のモデル渋谷天外も、曾我廼家十吾に誘われ、「松竹家庭劇」の旗揚げに加わっています。

竹井千代(杉咲花)のモデル浪花千栄子は、「新興成美団」で女優をしており、助っ人として「松竹家庭劇」に参加して後、昭和5年に正式に「松竹家庭劇」に配属されました。

やがて、渋谷天外と浪花千栄子は同棲を開始するのですが、2人は同棲している事を「松竹家庭劇」に秘密にしていました。

しかし、曾我廼家十吾は、2人が同棲している事を知っていたので、突然、渋谷天外の自宅を訪れます。

渋谷天外は、浪花千栄子をトイレに隠すのですが、曾我廼家十吾は2人が同棲している事を知っているので、「トイレを貸して欲しい」と言い、渋谷天外を困らせます。

すると、渋谷天外が同棲している事を打ち明けたので、曾我廼家十吾は2人に正式に結婚をするように勧め、渋谷天外と浪花千栄子は昭和5年に結婚しました。

■渋谷天外との対立

曾我廼家十吾と渋谷天外は演劇の方向性の違いから喧嘩をしており、戦後の昭和21年5月に渋谷天外が、妻・浪花千栄子を連れて「松竹家庭劇」を脱退しました。

昭和23年11月に、喜劇界の頂点に君臨していた曾我廼家五郎が死ぬと、松竹は「曾我廼家五郎劇」と「松竹家庭劇」を合併させ、「松竹新喜劇」を発足します。

このとき、松竹は、地方巡業をしていた渋谷天外と浪花千栄子を呼び戻し、「松竹新喜劇」の発足に参加させています。

さて、曾我廼家十吾は、「松竹新喜劇」の座長に就任するのですが、実権は渋谷天外がもっていたようです。

その後、渋谷天外が不倫相手の愛人との結婚を選んだため、看板女優だった浪花千栄子は離婚して「松竹新喜劇」を退団します。

その直後に渋谷天外は「春団治」をヒットさせ、文芸路線を強めていき、ますます、曾我廼家十吾との対立を深めます。

そのようななか、曾我廼家十吾は72歳の時に芝居の方向性の違いから、渋谷天外と対立して「松竹新喜劇」を退団し、再び理想の芝居を掲げて「松竹家庭劇」を旗揚げしましたのです。

しかし、曾我廼家十吾の俄ベースの芝居は古臭く、「松竹家庭劇」は全く人気が出ず、解散に追い込まれてしまいます。

その後、曾我廼家五郎は79歳の時に、「松竹新喜劇」に特別出演して14年ぶりに渋谷天外と共演を果たし、その後、何度か「松竹新喜劇」に出演したのですが、体力的な問題から、現役を引退しました。

そして、曾我廼家五郎は昭和49年(1974年)4月7日に急性肺炎で死去しました。83歳でした。

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■モデル2

須賀廼家千之助が20年前に、須賀廼家万太郎(板尾創路)と「須賀廼家兄弟劇」を一座を組んでというエピソードがあります。

このモデルは曽我廼家十郎なので、詳しくは「曽我廼家十郎の生涯」をご覧ください。

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