朝ドラ「エール」の「露営の歌」のモデルと古関裕而のネタバレ

NHKの朝ドラ「エール」のモデル古関裕而が「露営の歌」を作曲した実話のネタバレです。

朝ドラ「エール」のあらすじやネタバレは「エール-モデルとあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■エール-「露営の歌」のモデルとネタバレ

古関裕而は、昭和5年に日本コロムビアの専属作曲家になって以来、長らくヒット作が出ず、度々、契約解除の危機にさらされていたのですが、昭和10年に「船頭可愛や」を大ヒットさせ、日本コロムビアで作曲家としての地位を確立しました。

昭和11年には「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」を作曲したのですが、レコードが2000枚しか製造されなかった関係で、全くヒットしていませんでした。

「六甲おろし」が爆発的にヒットする昭和60年に阪神タイガースが日本一に輝いた時です。

さて、古関裕而は昭和12年に満州旅行を計画します。

妻の古関金子は、女学校を卒業すると、満州に居た兄に誘われて、満州旅行をしていました。

古関裕而は、古関金子から満州旅行の話を聞いていたので、満州に行きたいと思っていたのです。

ところが、昭和12年7月に中国で、日中戦争の発端となる「盧溝橋事件」が発生します。

このため、満州も危険になってきたので、満州に居る義弟から「旅行は中止されたし」と電報が来ました。

しかし、古関裕而は全てのお膳立てが出来ていたので、昭和12年8月に妻・古関金子を連れて満州へと向かいました。

一方、日本の歌謡界は、中国との対立から、戦時歌謡が増えてきており、「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」が共同で「進軍の歌」の歌詞を募集し、本多信寿の歌詞が選ばれました。

日本コロムビアが、このレコードを制作することになり、陸軍戸山学校軍楽隊が「進軍の歌」の作曲を手がけました(資料によっては筒井快哉の作曲となっています)。

このとき、佳作1席(2等)に選ばれた詩が優れていたので、この歌詞は「露営の歌」と名付けられ、「進軍の歌」のB面に収録されることになりました。

しかし、日本コロムビアの作曲家は避暑に出かけており、誰も残っていませんでした。
そこで、満州旅行中の古関裕而に電報を打ちました。

古関裕而は、満州旅行を終えて帰国中の船の中で、「急ぎの作曲があるから、神戸で下船しないで、門司から特急で上京されたい」という電報を受け取りました。

古関裕而は、何の作曲だろうと思いながら、福岡県の門司で船を下り、フェリーで山口県の下関へ渡り、駅前旅館で休んで朝食を取り、久しぶりに日本の新聞を読みました。

すると、募集した「進軍の歌」の歌詞の第1席から佳作までが発表されおり、「進軍の歌」は陸軍戸山学校軍楽隊が作曲する事などが書かれていました。

この募集で佳作1席(2等)に選ばれたのが、「露営の歌」です。

その後、汽車に乗った古関裕而は、東京までかなりの時間があるので、先ほど新聞で見た「露営の歌」の事を思い出し、暇つぶしに「露営の歌」に曲を付けました。

その後、古関裕而が東京の日本コロムビアに到着すると、ディレクターからA面の「進軍の歌」は既に吹き込みが終わっているので、B面の「露営の歌」に作曲して欲しいと頼まれました。

すると、古関裕而は驚いて、「それなら、もうできてますよ」と言い、ノートを見せました。

ディレクターが「どうして分かったんですか」と驚くと、古関裕而は「それは作曲家の第6感です」と答えた。

すると、ディレクターは「ちょうど、短調の曲が欲しかったんです」と喜び、関係者を呼んで曲を聴いて採用を決定した。

古関裕而は息継ぎの部分が難しいと思ったが、歌手の伊藤久男が「これくらいは何でも無い」と言ってくれたので、自宅に帰って伴奏部分を作り、曲を完成させました。

古関裕而は、ハ短調、卜短調、へ長調の3曲を作り、レコーディング前に聞かせると、自信を持っていたハ短調が支持されたので、ハ短調に決定しました。

そして、歌は日本コロムビアの伊藤久男・松平晃・霧島昇などの精鋭がレコードに吹き込み、戦時歌謡「露営の歌」が完成しました。

こうして、レコードは昭和12年9月に発売されました。

しかし、レコードは売れず、出征する兵士を見送る時には「日本陸軍の歌」が歌われていました。

ところが、2ヶ月ほどして、戦地の兵士は「進軍の歌」よりも「露営の歌」を好んで大合唱していると新聞で報じられた事を切っ掛けに、爆発的にレコードが売れ始め、半年ほどで60万枚を売り上げ、大ヒットを記録しました。

そして、出征する兵士を見送る時に、「露営の歌」が歌われるようになりました。

母・古関ヒサは、近所の人から「息子さんの曲なんですってね」と言われて鼻高々でした。

父・古関三郎治は、古関裕而のヒット曲も知らないようだったのですが、大流行している「露営の歌」が古関裕而の作曲だと知って喜びました。

古関裕而は、作曲家になるために上京するとき、親戚から「せいぜい演歌師が関の山だ」と悪口を言われたのですが、「露営の歌」がヒットすると、親戚が手のひらを返してすり寄ってきました。

こうして、古関裕而は「露営の歌」は全国的な作曲家へと成長し、少しは親孝行が出来たのでははいかと思うのでした。

なお、「露営の歌」は大ヒットしたので、シリーズ化され、芸者歌手が歌う「お座敷版」、女性歌手が歌う「婦人版」、児童が歌う「児童版」も発売されました。

さらに、「露営の歌」の伴奏が良いということで、西条八十が伴奏に歌詞を付け、「さくら進軍」という曲が生まれました。1つの曲から別の曲が生まれたのは、日本初のことでした。

さらに。日本コロムビアは2匹目のドジョウを狙い、古関裕而が「続露営の歌」を作曲したのですが、全く売れなかったので、シリーズ化は終わりました。

さて、「露営の歌」の次のヒット曲は「暁に祈る」なので、「暁に祈る」の実話については「エール-福島三羽ガラスと「暁に祈る」のモデルと実話のネタバレ」をご覧ください。

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