キリシタン明石全登(明石掃部)の生涯
NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村の生涯を描いた「実話・真田幸村の生涯」の番外編「明石全登(明石掃部)の生涯のあらすじとネタバレ」です。
実話・真田幸村の生涯の目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。
■明石氏の発祥
明石氏の発症は播磨国明石郡明石郷で、播磨・明石氏は播磨の守護代・赤松氏に仕えた。この播磨・明石氏が枝分かれして備前(岡山県東部)に移り、備前・明石氏が発症したと考えられる。
明石全登(明石掃部)は、備前・保木城(岡山県岡山市東区)の城主の明石行雄(明石景親)の子として生まれた。生まれた年は分からない。母親も分からない。
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■父・明石行雄と宇喜多直家
備前・保木城(岡山県岡山市東区)の城主である父・明石行雄(明石景親)は、備前(岡山県東部)を支配する天神山城の城主・浦上宗景に仕えた。父・明石行雄(明石景親)は浦上宗景に重用されていたようである。
その後、浦上家では、新参者の家臣・宇喜多直家が台頭し、家臣・宇喜多直家が下克上を起こして天神山城の城主・浦上宗景を播磨(兵庫県)に追放する。
このとき、宇喜多直家を浦上宗景の天神山城に引き入れたのが、父・明石行雄(明石景親)で、以降、父・明石行雄(明石景親)は宇喜多直家に重用される。
さて、宇喜多直家は浦上宗景の残存勢力を駆逐して備前(岡山県東部)を統一するが、東では織田信長が台頭しており、織田軍の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が播磨(兵庫県)へと侵攻してくる。
このとき、姫路城の城主・黒田勘兵衛(黒田如水)は、織田信長に下り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師となった。
さて、黒田勘兵衛(黒田如水)の母親・明石氏は、播磨明石氏の一族・明石正風の娘で、備前明石氏の父・明石行雄(明石景親)と同族であった。
そこで、黒田勘兵衛(黒田如水)は縁戚にある明石行雄(明石景親)を通じて、備前の宇喜多直家と交渉を開始した。
備前(岡山県東部)の宇喜多直家は、中国地方の覇者・毛利輝元に属して織田信長・羽柴秀吉(豊臣秀吉)に抵抗したが、病床にあり、幼い嫡男・宇喜多直家の事を心配していた。
そこで、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が嫡男・宇喜多直家に備前の安堵を約束したので、備前の宇喜多直家は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に寝返った。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は実子が居なかったので、幼い宇喜多直家を預かって養育し、宇喜多直を大変かわいがった。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は幼い宇喜多直家を特に気に入っていたらしく、後に最愛の養女・豪姫(前田利家の四女)を宇喜多直家と結婚させている。
その後、宇喜多直家が死に、幼い宇喜多秀家が家督を相続した。
こうして、宇喜多直家や明石行雄(明石景親)は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)や黒田勘兵衛(黒田如水)との交流が始まった。
■明石全登(明石掃部)の登場
その後、織田軍の羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、中国地方へ侵攻したが、高松城の水攻めを行っている最終に、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた(織田信長の野望-本能寺の変)。
織田信長の死を知った羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、対立していた毛利輝元と和睦し、毛利輝元から人質を取って、京都へと引き返し、謀反人・明智光秀を討つ。いわゆる「中国大返し」である。
このとき、木下藤吉郎(豊臣秀吉)は味方の宇喜多家からも人質を取っており、宇喜多家が人質として差し出したのが、明石全登(明石掃部)と戸川平右衛門の娘であった。2人とも年齢は分からないが、幼少であった。
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■明石全登(明石掃部)の初陣
明智光秀を討って織田信長の後継者となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、四国を統一した土佐の長宗我部元親と対立し、天正13年(1585年)に四国征伐を開始した。
宇喜多家も四国征伐に参加しており、明石全登(明石掃部)は宇喜多家の一将として四国征伐に参加していた。記録に残っている限りでは、この四国征伐が明石全登(明石掃部)の初陣である。
その後、宇喜多家は天正14年(1586年)に開始した豊臣秀吉の九州征伐に参加しており、明石全登(明石掃部)も従軍していたと考えられる。
その後、天正16年(1588年)ごろまでに、明石全登(明石掃部)は宇喜多直家の娘を正室に迎え(いとこ同士の結婚なので近親相姦になるか?)、明石家の家督を相続した。
天正18年(1590年)の小田原征伐には、宇喜多直家も出陣しているので、明石全登(明石掃部)も小田原征伐に参加していたと考えられる。
■明石全登(明石掃部)の朝鮮出兵(唐入り)
小田原征伐の後、天下統一を達成した豊臣秀吉は、第1次朝鮮出兵(文禄の役)を開始する。宇喜多直家は朝鮮出兵で日本軍の総大将を務め、日本軍の八番隊として朝鮮半島に渡り、京畿道の平定にあたった。
明石全登(明石掃部)も宇喜多家の一員として朝鮮半島に渡ったが、詳しい活躍は伝わっていない。
さて、快進撃で勝ち進んだ日本軍であったが、李氏朝鮮の救済に来た明軍(中国軍)に兵糧庫を焼かれて食糧不足に苦しみ、明軍(中国軍)と和睦し、第1次朝鮮出兵(文禄の役)は休戦に入る。
なお、明石全登(明石掃部)が第2次朝鮮出兵(慶長の役)に出陣したかは不明である。
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■明石全登(明石掃部)がキリシタンに
備前(岡山県東部)の宇喜多家がキリシタン大名の黒田勘兵衛(黒田如水)や小西行長と親しかった関係で、宇喜多領内ではキリスト教の布教が認められており、宇喜多家の宇喜多左京亮が文禄3年(1594)にキリスト教の洗礼を受けた。
(注釈:小西行長は元々、宇喜多家に出入りしていた商人で、宇喜多家に仕えた後、豊臣秀吉の家臣となった。)
このころ、宇喜多秀家の正室・豪姫(前田利家の四女で豊臣秀吉の養女)が狐憑き(精神病)になっていた(豪姫の狐憑き事件)。
養女・豪姫を溺愛していた豊臣秀吉は、狐憑き(精神病)になった豪姫の為に、連日連夜で祈祷を行わせたうえ、「豪姫から立ち退かなければ、毎年、狐狩りを行うぞ」と京都の伏見大明神を恫喝したが、豪姫は良くならなかった。
宇喜多秀家も日蓮宗の僧侶に祈祷させたが、正室・豪姫の狐憑き(精神病)が治らなかったので、家臣に日蓮宗から改宗するように命じた。
一方、北の政所は豪姫の回復を祈願して、宇喜多家の家臣に浄土真宗を信仰するように求めた。
このような状況でも、宇喜多左京亮はキリシタン信仰を貫いた。さらに、宇喜多左京亮は大阪城の改修普請で大阪に居た明石全登(明石掃部)を熱心に勧誘すると、明石全登(明石掃部)は修道士の説教を受ける事にした。
修道士の説教は明石全登(明石掃部)の希望により、夜の10時まで行われた。説教を聞いた明石全登(明石掃部)は、大阪で残りの説教を聞いて洗礼を受ける事を決めた。
しかし、明石全登(明石掃部)は「キリスト教の戒律を完全に守れない」「一度ある教えに従った後に別の教えに入る事は、身分高く名誉ある人物の為すべきことではない」と悩んだ。
このため、明石全登(明石掃部)は、3度、4度の説教を受けても洗礼を受けることを先延ばしたが、文禄5年(1596年)に大阪でキリスト教の洗礼を受けた。明石全登(明石掃部)の洗礼名は「ドン・ジョアン」である。
■日本二十六聖人と明石全登(明石掃部)
ところで、豊臣秀吉は九州征伐の後にバテレン追放令を出したが、それほど厳しい取り締まりではなかった。
先に日本に進出していたイエズス会は豊臣秀吉に配慮して表立った布教活動はしていなかったが、布教活動をしないという約束で京都に滞在していた新参者のフランシスコ会は約束を破って公然と布教活動を行っていた。
このようななか、文禄5年(1596年)12月、キリシタンの布教活動に苛立っていた豊臣秀吉は、スペイン船「サン・フェリペ号」が土佐沖(高知県沖)に漂着した事件を切っ掛けに、キリシタンの弾圧に踏み切った。
前田利家や石田三成の奔走により、被害は最小限に食い止められたが、日本人修道士5人を含む修道士24人(後に2人が加わる)が逮捕され、徒歩で長崎に送られた。
修道士26人の輸送警護は、通る土地の領主が担当するため、キリスト教の洗礼を受けたばかりの明石全登(明石掃部)は備前へと戻り、宇喜多領に入った修道士26人を引き取り、修道士26人の警護隊長を務めた。
明石全登(明石掃部)は宇喜多領を通る3日間の間、修道士26人にできる限りの便宜を図り、毛利領に入ると、修道士26人を毛利元就に引き渡した。
(注釈:輸送中の囚人に問題が起これば、その土地の領主の責任になるため、輸送中の修道士26人は最低限の配慮は受けている。)
その後、長崎に送られた修道士26人は、キリストがゴルゴタの丘で処刑されたことから、西坂の丘を処刑の場として選び、西坂の丘で処刑された。
■明石全登(明石掃部)の石高
明石全登(明石掃部)の石高は3万3910石で、明石全登(明石掃部)は大名格である。
石高だけでいえば、明石全登(明石掃部)は宇喜多家で最高額だったが、国の経営に参加していなかったので、宇喜多家での地位は2番手か3番手あたりだった。
明石全登(明石掃部)は、国の経営には参加せず、「客分」のような立場で、キリシタンとしての信仰に力を注いでいた。
■宇喜多騒動と明石全登(明石掃部)
宇喜多秀家は豊臣秀吉に養育され、豊臣秀吉の養女・豪姫を正室に迎えて以降も、大阪の屋敷で生活していたので、国元の経営は全て家臣に任していた。
文禄4年(1595年)、宇喜多家の長船綱直は検地を行い、家臣の領地替えを行った。これにより、家臣は既得権益を奪われ、長船綱直に不満を募らせ、宇喜多家で派閥争いが勃発する。宇喜多家のお家騒動「宇喜多騒動」である。
宇喜多家の派閥争いは、第2次朝鮮出兵により中断したが、豊臣秀吉の死によって第2次朝鮮出兵が終わると、文禄5年(1600年)に再び宇喜多家で派閥争いが勃発した。
しかし、客分的な立場にあった明石全登(明石掃部)は、派閥争いには加わらず、キリスト教の布教に務め、備前で2000から3000という信者を増やしていた。
そのようななか、宇喜多家はお家騒動「宇喜多騒動」の影響で、大勢の家臣が追放・蟄居・逐電したため、宇喜多家の家老職が空白になった。
明石全登(明石掃部)は大した武功は無かったが、宇喜多家をまとめられるのは明石全登(明石掃部)しかいないということになり、宇喜多家の要請で明石全登(明石掃部)は宇喜多家の家老に就任する。
そして、明石全登(明石掃部)はお家騒動「宇喜多騒動」で失った戦力を補強するため、大々的に家臣を募集して、宇喜多家の戦力を補強した。
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■明石全登(明石掃部)と関ヶ原の戦い
2度に渡る朝鮮出兵は、豊臣秀吉の死によって終結を向かえた。そして、豊臣秀吉の死後、徳川家康は豊臣秀吉の遺言を大義名分として、伏見の自邸で政務を取り仕切り、婚姻政策によって勢力を拡大した。
このようななか、会津(福島県)の上杉景勝が、石田三成と密約を結んで挙兵の準備をすすめたため、徳川家康は会津征伐(上杉征伐)を発動し、慶長5年(1600年)6月16日に徳川家康は諸将を率いて大阪城を出陣した。
この会津征伐(上杉征伐)は豊臣家の名義で発せられており、備前の宇喜多秀家も会津征伐(上杉征伐)に参加するため、大阪に居たキリシタンの宇喜多左京亮を先発させた。
その後、宇喜多秀家も慶長5年(1600年)6月末に備前(岡山県東部)を出陣して、慶長5年(1600年)7月2日に大阪に入り、その後、京都に入って必勝を祈願した。
ところが、石田三成と大谷善継が、毛利の外僧・安国寺恵瓊と語らって大阪城で挙兵したため、宇喜多秀家は石田三成の西軍に与することにした。
宇喜多秀家は宇喜多秀家は豊臣秀吉の寵愛を受けて養育されたうえ、豊臣秀吉の秘蔵っ子と言われる養女・豪姫(前田利家の四女で豊臣秀吉の養女)を正室に迎えており、豊臣家とのつながりが深いため、西軍に味方したのであろう。
宇喜多秀家はの兵力は1万6500で、関ヶ原の戦いでは西軍の最大勢力となり、小早川秀秋が1万5000、毛利秀元1万5000と並ぶ西軍の主力部隊である。
東軍・西軍を併せても、関ヶ原の戦いでの最大勢力は徳川家康の3万で、1万6500の宇喜多秀家は2番目の勢力であった。
さて、石田三成らの要請により、中国地方の毛利輝元が総大将に就任し、西軍は京都にある東軍の伏見城を攻める。
宇喜多秀家は西軍の諸将と共に京都・伏見城を攻めた。明石全登(明石掃部)と長船吉兵衛(長船定行)は宇喜多軍の先鋒を務め、西軍は伏見城を攻略した。
ところで、伏見城攻めの最中に、西軍の毛利秀元・吉川広家が紀伊(和歌山県)へと侵攻を開始しており、伏見城を攻略した宇喜多秀家は、明石全登(明石掃部)を紀伊(和歌山県)へ差し向けた。
明石全登(明石掃部)は6000の軍勢を率いて紀伊(和歌山県)へと侵攻したが、西軍の毛利秀元・吉川広家は戦意が無かったので、紀伊(和歌山県)の平定は進まなかった。
そこで、西軍の総大将・毛利輝元は、大阪に戻っていた宇喜多秀家を紀伊(和歌山県)へ派遣した。
慶長5年(1600年)8月、宇喜多秀家は1万の軍勢を率いて紀伊(和歌山県)へと侵攻し、先発していた明石全登(明石掃部)と合流し、紀伊(和歌山県)の平定に着手しようとしたが、大垣城(岐阜県大垣市)に居る西軍・石田三成から要請を受けて、大垣城へと急行する。
要請を受けた宇喜多秀家は慶長5年(1600年)8月23日に大垣城(岐阜県大垣市)へ入る。ちょうどこの日、西軍の美濃・岐阜城(岐阜県岐阜市)がわずか1日で東軍の福島正則らに攻め落とされていた。
西軍・宇喜多秀家は美濃(岐阜県)への侵攻を進言したが、石田三成は動かず、西軍は勢いに乗じて大垣城の北4kmにある赤坂(岐阜県赤坂町)に終結した。
数的劣勢にあった西軍の石田三成は、赤坂に集結した東軍を攻めることができず、西軍の諸将に大垣城へ集結するように呼びかけた。
しかし、大阪城に居る総大将・毛利輝元は動かず、西軍・小早川秀秋も関ヶ原の南西にある松尾山に布陣するという謎の行動を取った。
一方、赤坂(岐阜県赤坂町)に集結した東軍は、大垣城を水攻めにしようとしたが、江戸を出陣した徳川家康に戦を禁止を命じられたため、ただ徳川家康の到着を待つのみであった。
さて、慶長5年(1600年)9月1日に江戸を出陣した徳川家康は、西軍に悟られないように岐阜城を経由して慶長5年(1600年)9月14日の昼ごろに赤坂(岐阜県赤坂町)に入り、着陣するやいなや、西軍の大垣城(岐阜県大垣市)に向かった旗を立てた。
徳川家康の出現に驚いた大垣城の西軍は、動揺して兵が逃げ出したので、宇喜多秀家は動揺を抑えるため、東軍との戦を提案すると、石田三成もこれに同意した。
大垣城と赤坂の間に杭瀬川が流れており、杭瀬川の上流に東軍の最前線となる中村一栄・有馬豊氏が布陣していた。
そこで、西軍の島左近と蒲生郷舎は精鋭500を率いて、宇喜多家の明石全登(明石掃部)と本多政重が精鋭800を率いて、杭瀬川の上流へ行き、中村一栄の前で苅田(田んぼの稲を刈る行為)をして東軍の中村一栄を挑発した。
すると、中村一栄の兵が柵を越えて西軍へと襲いかかった。
島左近は適度に戦って兵を引くと、中村一栄の兵が追撃してきたので、西軍の伏兵が中村一栄の退路を断った。これを観た東軍・有馬豊氏が東軍・中村一栄の救出に向かい、混戦となる。
このとき、迂回してきた宇喜多家の明石全登(明石掃部)が手勢300で鉄砲を撃ちかけ、槍を振るって敵と戦った。
本陣で食事をしながら戦を見ていた徳川家康は、東軍の旗色が悪かったので機嫌を損ね、本多忠勝に撤退を命じた。
そこで、本多忠勝が西軍に鉄砲を射かけ、西軍が怯んだ隙に東軍を撤退させた。西軍も日が暮れ始めていたので、追撃せずに引き上げた(杭瀬川の戦い)。
杭瀬川の戦いは局地的な小さな戦いではあるが、西軍は関ヶ原の戦いの前哨戦となる杭瀬川の戦いで勝利した。
■関ヶ原の戦い
西軍は関ヶ原の戦いの前哨戦となる「杭瀬川の戦い」で勝利したが、関ヶ原の戦いの前夜に、闇に紛れて大垣城を出て、関ヶ原へと転陣する。
関ヶ原に敷いた西軍の陣は強固な柵などが設けられていることから、関ヶ原への転陣は場当たり的な転陣ではなく、西軍・石田三成は元々、関ヶ原を防衛ラインの1つとして考えて以前から整備していたいう説がある。
一方、徳川家康も西軍の転陣に気づいて後を追い、関ヶ原に転陣した。
慶長5年(1600年)9月15日午前8時ごろ、濃い霧が立ちこめるなか、東軍・井伊直政が抜け駆けして西軍・宇喜多秀家の軍勢に発砲すると、抜け駆けされた東軍・福島正則も慌てて西軍・宇喜多秀家の軍勢に発砲し、関ヶ原の戦いが始まった。
西軍・宇喜多秀家の先鋒を務める明石全登(明石掃部)は、東軍・福島正則を押し返したが、東軍・井伊直政らに横槍を入れられ、混戦となる。
このようななか、関ヶ原の南西にある松尾山に布陣していた西軍・小早川秀秋が東軍に寝返ったため、西軍は総崩れとなってしまう。
西軍・宇喜多秀家は東軍に寝返った小早川秀秋に激怒し、小早川秀秋の軍勢に切り込んで小早川秀秋と差し違えようとしたが、明石全登(明石掃部)に諫められて大阪へと撤退する。
明石全登(明石掃部)は殿(軍の最後尾)を務めて大阪まで引くと、宇喜多秀家から離れて宇喜多秀家の居城・岡山城へと戻り、岡山城で再起を図る準備をしようとしたが、既に家臣が暴徒と化して岡山城内を荒らした後だった。
さらに、宇喜多秀家も行方が分からなくなったため、明石全登(明石掃部)は備中の足守のあたりに親しい禅僧が居たので、その禅僧を頼り、備中国足守の辺りで数ヶ月を過ごしたようである。
■関ヶ原の合戦の後
ところで、関ヶ原の戦いで西軍が総崩れとなり、西軍・明石全登(明石掃部)が殿を務めて撤退していたとき、明石全登(明石掃部)は東軍・黒田長政と出会った。
東軍・黒田長政は、キリシタン大名・黒田如水(黒田勘兵衛)の嫡男で、東軍・黒田長政もまた「ダミアン」という洗礼名を持つキリシタン大名であった。
東軍・黒田長政が「どうして自決をしないのか」と尋ねると、西軍・明石全登(明石掃部)は「デウスに対する尊敬の念から、そのような犯罪行為を恐れた。私が敵陣の中に居るのは、敵の手にかかって討ち死にするためである。黒田長政殿に首をはねられるのであれば、並々ならぬ恩義を感じるであろう」と答えた。
それを聞いた東軍・黒田長政は、徳川家康に助命嘆願する事を約束し、馬を下りて西軍・明石全登(明石掃部)に馬を譲り、東軍・黒田長政は家臣の馬に乗って西軍・明石全登(明石掃部)と別れた。
関ヶ原の戦い後、黒田長政は徳川家康に西軍のキリシタン・明石全登(明石掃部)の助命を嘆願し、自分の家臣に加えたい事を願い出ると、徳川家康は西軍・明石全登(明石掃部)を助命し、黒田長政の家臣に加える事を許可した。
さて、豊前・中津城の城主・黒田長政は関ヶ原の合戦で東軍の勝利に大きく貢献したため、徳川家康より筑前(福岡県西部)を拝領し、福岡藩を立藩すると、約束通り、明石全登(明石掃部)を家臣にした。
備中に潜伏していた明石全登(明石掃部)は、慶長6年(1601年)1月頃に福岡藩主・黒田長政の家臣となり、キリスト教徒300人を連れて筑前(福岡県西部)に入り、十分な扶持を得て、キリスト教の信仰に力を注いだ。
このころ、明石全登(明石掃部)の妻が死に、明石全登(明石掃部)は妻を長崎に埋葬した。
慶長6年(1601年)6月、長崎を訪れた明石全登(明石掃部)は、出家してイエズス会の司祭になることを臨んだが、イエズス会は明石全登(明石掃部)が出家するとデウスの利益にならないとして、それを拒んだ。
さて、1ヶ月ほど長崎に滞在した明石全登(明石掃部)が筑前(福岡県西部)に帰国しようとしていたところ、突然、藩主・黒田長政の使者が来て、俸禄の没収と蟄居謹慎を言い渡される。
実は、西軍・宇喜多秀家は関ヶ原の合戦の後、伊吹山に逃げ込み、伊吹山で自害した事になっていたが、実際は生き延びて薩摩の島津家に匿って貰っており、大阪などで「宇喜多秀家が生きている」という噂が広まっていたのである。
1万7500の軍勢を率いていた宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで西軍最大の勢力であり、西軍・東軍を通じても、徳川家康の3万に次ぐ、勢力であった。この宇喜多秀家が生きているとなると、徳川家康が激怒するのは目に見えていた。
このため、明石全登(明石掃部)など宇喜多家の家臣を召し抱えていた黒田長政は、徳川家康に目を付けられる事を恐れ、明石全登(明石掃部)に蟄居謹慎を命じたのである。
明石全登(明石掃部)は、黒田長政の命令を素直に受け入れ、筑前(福岡県西部)に帰国し、蟄居謹慎した。
藩主・黒田長政は明石全登(明石掃部)を処刑するつもりだったが、黒田長政の父・黒田如水(黒田勘兵衛)は、明石全登(明石掃部)を隠居させ、明石全登(明石掃部)を助けた。
黒田如水(黒田勘兵衛)は熱心なキリシタンだったうえ、母親が明石全登(明石掃部)と同族の明石氏(明石正風の娘)だったので、明石全登(明石掃部)を助けたのだろう。
こうして、明石全登(明石掃部)は、黒田如水(黒田勘兵衛)の計らいにより、黒田如水(黒田勘兵衛)の異母兄弟で熱心なキリシタンである黒田惣右衛門(黒田直之)の筑前国秋月に移った。知行は明石全登(明石掃部)の息子(家臣?)が引き継いだらしい。
そして、隠居した明石全登(明石掃部)は「明石道斎」と名乗ったらしく、その後、「明石全登」(明石道斎全登)を名乗るようになった。
一方、宇喜多秀家は薩摩(鹿児島県)の島津家に匿われていたが、西軍に属した島津家は徳川家康の上洛要請を拒否し続け、ついには本領安堵を得たので、島津家は宇喜多秀家の命の保証を条件に、徳川家に宇喜多秀家の身柄を引き渡し、その後、宇喜多秀家は八丈島へ島流しになった。
宇喜多秀家の問題が解決すると、明石全登(明石掃部)は隠居していたので、明石全登(明石掃部)の家臣が再び黒田長政の家臣となり、明石全登(明石掃部)はキリスト教への信仰を深めていた。
しかし、黒田如水(黒田勘兵衛)の死後、藩主・黒田長政はキリシタンを禁止し、キリシタンの家臣にも改宗を迫り、明石全登(明石掃部)を追放する。
■明石全登(明石掃部)と大坂冬の陣
黒田家を出た明石全登(明石掃部)は、柳河藩の藩主・田中忠政を頼った。藩主・田中忠政は熱心なキリスト教保護者である。
その後、明石全登(明石掃部)は京都のイエズス会に滞在し、イエズス会から多額の支援を受けた。
このようななか、キリシタン岡本大八による巨額詐欺事件「岡本大八事件」が発生する。
徳川家康は岡本大八事件を切っ掛けに、慶長17年(1612年)3月に直轄地に禁教令を出して諸大名にもキリスト教の追放を命じ、慶長18年(1613年)2月には全国に「バテレン追放令」を公布した。
ところで、徳川家康は、大阪の豊臣家との共存共栄を考えていたが、豊臣秀頼との会見を切っ掛けに方針を転換し、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件を切っ掛けに豊臣家と対立して豊臣征伐(大坂の陣)を発動する。
徳川家に宣戦布告した豊臣秀頼は、豊臣恩顧の武将に上洛を呼びかけるが、既に世の中は徳川家の時代になっており、上洛する豊臣恩顧武将は居なかった。
そこで、豊臣家は関ヶ原の戦いで大量に発生した牢人に集結を呼びかけたのである。
このとき、豊臣秀頼がキリスト教の保護を約束したので、明石全登(明石掃部)は徳川家康のバテレン追放令に苦しんでいたキリスト教徒2000人を率いて大阪城に入城したと伝わる。
■大阪牢人5人衆の逸話
豊臣秀頼の要請に応じて大阪城に入った牢人のうち、元大名であった真田信繁(真田幸村)・毛利勝永・長宗我部盛親の3人は、新参者でありながら、軍議に参加することが許され、「大阪牢人3人衆」と呼ばれた。
当初、後藤基次(後藤又兵衛)と明石全登(明石掃部)と言った小身は、軍議に参加することは出来なかったのである。
さて、大阪城は川や湿地帯を利用した天然の要害だったが、南方には平野が広がっており、徳川の大軍は大阪城の南方に布陣する事は明らかだった。
そこで、牢人・後藤基次(後藤又兵衛)は、大阪城の南方の平野口に馬出「後藤丸」を築く為に縄張りを開始した。
馬出というのは、城の出入り口を防御するため、城壁の外側に土塁や壁を築いた施設で、城の防衛手段として以前から使用されていた。
ところが、大阪牢人3人衆の真田信繁(真田幸村)が、牢人・後藤基次(後藤又兵衛)と同じ場所に馬出「真田丸」を築き始めたため、後藤基次(後藤又兵衛)と真田信繁(真田幸村)は険悪な関係になる。
この2人を仲裁したのが、キリシタン牢人の明石全登(明石掃部)である。
このころ、兄・真田信之(上田藩の藩主)が江戸幕府軍に属していたことから、牢人・真田信繁(真田幸村)が徳川家康に内通しているという噂が広まっており、真田信繁(真田幸村)は裏切りを疑われていた。
(注釈:兄・真田信之は病気で大阪に陣には出陣しておらず、兄・真田信之の子供2人が名代として大坂の陣に出陣している。)
そこで、キリシタン牢人の明石全登(明石掃部)の仲裁により、後藤基次(後藤又兵衛)は裏切りを疑われている真田信繁(真田幸村)のために「後藤丸」を譲り、真田信繁(真田幸村)が「後藤丸」を潰して「真田丸」を築いた。
このため、後藤基次(後藤又兵衛)と明石全登(明石掃部)の2人は豊臣家に認められ、軍議に参加できるようになった。
こうして、真田信繁(真田幸村)・毛利勝永・長宗我部盛親の大阪牢人3人衆に、後藤基次(後藤又兵衛)と明石全登(明石掃部)の2人が加わり、大阪牢人5人衆と呼ばれるようになったのである。
■明石全登(明石掃部)と大坂冬の陣
大阪城の西側は物資搬入の要所だったので、豊臣家の大野長治が大阪城の西側場外に砦を築いており、明石全登(明石掃部)は大阪城の西側城外に築いた木津川口の砦の守備していた。
しかし、慶長19年(1614年)11月19日、明石全登(明石掃部)が大阪城内に言って砦をするにしている時に、江戸幕府軍の蜂須賀至鎮に木津川口の砦を攻められたため、木津川口の砦はあっけなく、陥落した。
その後、豊臣家は大阪城の西側にある船場に火を掛けて大阪城の西側を放棄し、完全な籠城に入り、明石全登(明石掃部)は真田丸の戦いのとき、大阪城の南側を守って江戸幕府軍と戦った。
江戸幕府軍は真田丸の戦いで大敗したが、徳川家康は連日連夜の砲撃で、大阪城の豊臣家を不安に陥れて和睦に持ち込み、慶長19年(1614年)12月に大坂冬の陣は終結し、江戸幕府軍は大阪城の外堀と内堀を埋め立てた。
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■明石全登(明石掃部)と大坂夏の陣
ところが、慶長20年(1615年)3月に入ると、大阪の牢人が埋め立てた堀を掘り起こしたり、京都で放火しているという噂が流れた。
徳川家康は豊臣秀頼に牢人の追放か転封を要求したが、豊臣秀頼はこれを拒否したため、大坂夏の陣に勃発した。
■大坂夏の陣-樫井の戦い
大阪城は大坂冬の陣の和睦条件で堀が埋められたため、大阪城は丸裸となっており、豊臣家は城外で戦うしか道は無かった。
そこで、豊臣家は南方から攻めてくる紀州藩主・浅野長晟を攻めた。紀州藩主・浅野長晟はそれを察知して、樫井まで退き、豊臣軍を迎え撃った(樫井の戦い)。
この「樫井の戦い」で、豊臣軍の先鋒・塙直之らが戦死し、紀州藩主・浅野長晟も紀伊国山口まで退いた。
■大坂夏の陣-道明寺の戦い
続いて豊臣家は、大和口から来る江戸幕府軍が河内平野で兵を展開する前に攻撃するため、後藤基次(後藤又兵衛)・明石全登(明石掃部)ら先発隊6400と、毛利勝永・真田信繁(真田幸村)ら後発隊12000を道明寺へ差し向けた。
慶長20年(1615年)5月1日、午前零時に手勢2000を率いて平野を出た後藤基次(後藤又兵衛)は、夜明け前に道明寺に到着したが、豊臣軍は濃い霧の影響で遅刻しており、誰1人として来ていなかった。
そこで、後藤基次(後藤又兵衛)は江戸幕府軍が既に兵を展開していることを知ったので、石川を渡り、江戸幕府軍の面前にある小松山に布陣し、江戸幕府軍との戦いを開始した。
後藤基次(後藤又兵衛)は孤軍奮闘し、江戸幕府軍を何度も撃退するが、江戸幕府軍の伊達政宗が援軍に駆けつけると、後藤基次(後藤又兵衛)は次第に劣勢になり、激戦の末、慶長20年(1615年)5月1日正午ごろに後藤基次(後藤又兵衛)は伊達正宗軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
後藤基次(後藤又兵衛)が討ち死にした頃になり、ようやく、豊臣軍が道明寺に到着し始めた。豊臣軍・薄田兼相は、江戸幕府軍を何度も押し返して奮闘したが、やがて討ち死にした。
やがて、豊臣軍の明石全登(明石掃部)や豊臣軍・後発隊の毛利勝永・真田信繁(真田幸村)らも到着し、なんとか江戸幕府軍を押し返し、真田信繁(真田幸村)が殿(軍の最後尾)を務めて豊臣軍は撤退した。
■大坂夏の陣-天王寺の戦い
豊臣軍は5万の軍勢を大阪城の南方に配置した。真田信繁(真田幸村)は最前線となる茶臼山に布陣した。明石全登(明石掃部)は手勢2000を率いて大阪城の西の船場に布陣していた。
対する江戸幕府軍は、15万の大軍で豊臣軍の南方に布陣した。
豊臣軍は真田信繁(真田幸村)の立案により、真田信繁(真田幸村)が天王寺の周辺で江戸幕府軍を引きつけている間に、船場に居る明石全登(明石掃部)が精鋭300を率いて迂回し、徳川家康の本陣を襲撃する事になっていた。
しかし、天王寺に布陣していた豊臣軍・毛利勝永の兵が、物見に来た江戸幕府軍・本多忠朝の手勢に向かって発砲したため、江戸幕府軍・本多忠朝が応戦し、戦が始まってしまい、明石全登(明石掃部)を突撃させる作戦は失敗に終わる。
作戦は失敗に終わったが、豊臣軍・毛利勝永らは、次々と江戸幕府軍を撃破し、徳川家康の本陣へと迫り、徳川家康の本陣を苦しめた。
真田信繁(真田幸村)は江戸幕府軍・松平忠直と戦っていたとき、江戸幕府軍の間で「浅野長晟が豊臣方に寝返った」という噂が流れたため、江戸幕府軍は挟み撃ちになる事を恐れ、後陣から崩れていった。
(注釈:これは「裏崩れ」と言って、後陣から崩れていき、前陣までも混乱を起こして崩れて行くパターンである。)
真田信繁(真田幸村)はその隙を突き、豊臣軍・毛利勝永と戦っていた徳川家康の本陣へと突撃した。このとき、徳川家康は自害を口走るほど狼狽したという。
しかし、いかんせん、多勢に無勢である。次第に江戸幕府軍は体制を立て直し、豊臣軍は劣勢になっていった。
真田信繁(真田幸村)は戦い疲れて安井神社で休息しているところを敵に見つかり、討ち取られ、善戦していた豊臣軍・毛利勝永も撤退した。
さて、江戸幕府軍・水野勝成は、船場から大阪城内に入る道を知っていたので、大阪城西側の船場へと向かうと、豊臣軍・隊明石全登(明石掃部)が船場にある生国魂神社のあたりに布陣していた。
豊臣軍・明石全登(明石掃部)は徳川家康の本陣を狙う奇襲部隊だったが、天王寺で豊臣軍・毛利勝永の兵が勝手に戦を始めてしまったため、作戦の継続を断念し、生国魂神社のあたりに陣を敷いて様子をうかがっていたのである。
江戸幕府軍の、水野勝成・松平忠直・本多忠政・藤堂高虎らは良き敵が居たと思い、明石全登(明石掃部)を包囲するため、進軍した。
対する明石全登(明石掃部)は鉄砲を射かけて敵陣に突撃し、松平忠直・本多忠政を追い崩した。
明石全登(明石掃部)はわずか300の手勢で、1万を超える江戸幕府軍を相手にして、戦国無双の活躍をみせた。
しかし、多勢に無勢である。隊明石全登(明石掃部)の手勢も相当な被害を受けたので、明石全登(明石掃部)は敵陣を突破して大阪城へと逃げ込んだ。
その後、江戸幕府軍は丸裸になった大阪城を包囲した。豊臣家は豊臣秀頼の正室・千姫(徳川秀忠の娘、母親は江)を逃がし、正室・千姫が助命嘆願した。
しかし、徳川家康は助命を認めなかったので、翌日、豊臣秀頼と淀殿は自害した。こうして、豊臣家は滅亡し、大坂夏の陣は終わった。
明石全登(明石掃部)の行方は分からず、水野勝成家臣の汀三右衛門に討ち取られたとも、伊達政宗の家臣・石母田大膳(石母田宗頼)に討ち取られたとも、京極忠高の家臣に討ち取られたとも伝わる。
多くの資料が明石全登(明石掃部)は討ち死にしたとしているが、明石全登(明石掃部)が落ち延びたという資料もある。
■明石全登(明石掃部)と明石狩り
徳川家康は、大坂の陣の後に落ち武者狩り(残党狩り)を行った。大坂の陣の落ち武者狩りは、厳しいもので、長宗我部盛親や大野治胤が捕り、処刑された。
しかし、大阪牢人5人衆のうち、明石全登(明石掃部)だけは死亡が確認できなかったので、徳川家康はこれに怒り、明石全登(明石掃部)を探させた。世に言う「明石狩り」である。
江戸幕府は、柳河藩の藩主・田中忠政の家臣・田中長門守や、明石全登(明石掃部)の家臣・澤原孫右衛門が捕らえられて拷問したが、結局、明石全登(明石掃部)の行方は分からなかった。
なお、明石全登の次女・明石レジイナ(明石レジーナ)の生涯については、「明石レジイナ(明石レジーナ)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。
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