エール-佐藤久志(山崎育三郎)が「丘を越えて」を歌う理由のネタバレ

NHKの朝ドラ「エール」の新人発掘オーディションで、スター佐藤こと佐藤久志(山崎育三郎)が「丘を越えて」を歌う理由のネタバレです。

■伊藤久男のデビューの経緯

佐藤久志(山崎育三郎)がコロンブスレコードの新人発掘オーディションで、木枯正人(野田洋次郎)の作曲した「丘を越えて」を歌うのには、モデルとなった実話があります。

佐藤久志(山崎育三郎)のモデル伊藤久男は、音楽家を志していたのですが、農業を営む実家の意向で、東京農大へと進学しました。

しかし、音楽の道を諦められず、東京農大を1年で退学して、帝国音楽学校に入学しました。

伊藤久男の実家・伊藤家は、福島県の二本松城の城主だった二本松畠山氏の分家筋で、由緒ある家柄だったので、音楽の道に進むなど、とんでもないことでした。

このため、伊藤久男は帝国音楽学校へ入学した事がバレると、実家からの仕送りを止められてしまいました。

そこで、伊藤久男は、東京で知り合った古関裕而の勧めもあり、学費を稼ぐために日本コロムビアの歌手募集に応募し、マイナーレーベルの「リーガルレコード」から「伊藤久男」の名義でデビューしました。

さらに、メージャーレーベルの「コロムビアレコード」からも、「宮本一夫」の名義でデビューします。

しかし、その後は名義を入れ替え、「リーガルレコード」で「宮本一夫」を使い、「コロムビアレコード」で「伊藤久男」を使うようになりました。

「宮本一夫」という名前は、故郷の福島県本宮市の「本宮」を反対にしたものです。

また、学生と歌手の二刀流ということで、二刀流の宮本武蔵にあやかるという意味もありました。

スポンサードリンク

■プリンス佐藤が「丘を越えて」を歌う理由

朝ドラ「エール」の新人発掘オーディションで、佐藤久志(山崎育三郎)は古関裕而の曲ではなく、古賀政男の「丘を越えて」を歌うにはモデルとなる実話があります。

朝ドラ「エール」の新人歌手オーディションは昭和11年のエピソードですが、モデルの伊藤久男が歌手募集に応募したのは昭和7年で、翌年の昭和8年にデビューしています。

今でこそ、歌手と言えば、憧れの職業ですが、当時は非常に地位の低い職業でした。

双浦環(柴咲コウ)のモデル三浦環も、東京音楽学校へ進学するとき、父親から歌手なんて西洋の芸者だと言われ、東京音楽学校への進学を反対されています。

オペラでもその程度の扱いなので、流行歌というのは歌手の中でも底辺であり、社会的な価値が低くかったのです。

そして、伊藤久男は帝国音楽学校の声楽家でイタリアンオペラを勉強しており、オペラ歌手を目指していたので、流行歌については、ほとんど知りませんでした。

唯一知っていた流行歌は、中山晋平が作曲した「船頭小唄」だったと言います。

しかし、そんな伊藤久男が、カフェーで流行歌を聴いて「これはなかなか良い」と思ったのが、古賀政男の作曲した「丘を越えて」だったのです。

実際に伊藤久男が、日本コロムビアの新人歌手の募集で「丘を越えて」を歌ったかどうかは不明ですが、史実としては、このような背景があるのです。

ちなみに、伊藤久男がデビューした昭和8年、古関裕而はヒット曲が出ず、契約解除に怯えていました。

しかし、古関裕而は、昭和9年の「利根の舟唄」が初ヒットし、昭和10年の「船頭可愛や」が大ヒットして、ようやく契約解除に怯える生活から抜け出せました。

なお、伊藤久男の生涯については「エール-佐藤久志(山崎育三郎)のモデルは伊藤久男」をご覧ください。

スポンサードリンク

コメントを投稿する

コメントは正常に投稿されていますが、反映に時間がかかります。