エール-池田二郎(北村有起哉)のモデル・菊田一夫の生涯

NHKの朝ドラ「エール」に登場する池田二郎(北村有起哉)のモデルのネタバレです。

■エール-池田二郎のネタバレ

池田二郎(北村有起哉)は、作家で、戦後、作曲家の古山裕一(窪田正孝)と共にラジオドラマや舞台を手がけ、数々のヒット曲を生み出していきます。

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■エール-池田二郎のモデルは菊田一夫

菊田一夫は、明治41年(1908年)3月1日に神奈川県横浜市西戸部町で生まれました。

父親の西郷武大は、菊田一夫の生後4ヶ月で妻・内田センと離婚し、妻の姉と再婚して、台湾へと渡りました。

しかし、菊田一夫は両親から虐待を受けており、両親が逮捕されてしまいます。

このため、菊田一夫は台湾に住む日本人に引き取られるのですが、引取先に子供が生まれたりして、日本人宅を転々とします。

そして、最終的に台湾に住む裕福な菊田吉三郎に引き取られ、ようやく幸せな生活を送れるようになるのですが、菊田吉三郎は早死にしてしまいます。

菊田一夫は、菊田吉三郎の妻・菊田セツヨに育てられるのですが、菊田セツヨは、男に騙されていたようで、再婚を繰り返す度に財産を減らしていき、7度目の再婚で金森養之助と結婚しました。

この金森養之助が悪党で、菊田一夫を日本の学校に通わせると言い、日本に連れて帰るのですが、菊田一夫を大阪の薬問屋に奉公人として売り飛ばします。

その後、菊田一夫は神戸の店に売り飛ばされるのですが、今度の主人は良い人で、商科実業学校(神戸市立神港高校)の夜学に通わせてくれました。

こころ、菊田一夫は同人誌に詩を投稿するようになり、社長令嬢と恋に落ちたりします。社長令嬢が宝塚少女歌劇のファンだったので、菊田一夫も宝塚少女歌劇が好きになりるのですが、丁稚奉公と社長令嬢では結婚は許されない時代でした。

そのようななか、菊田一夫は、店の主人から集金を持ち逃げしたと疑われたので、店を飛び出して東京へと行き、雑誌「太平洋詩人」の創刊に関わり、師匠となるサトーハチローと出会います。

その後、菊田一夫は自殺未遂を起こしたり、馬賊になると言って中国へと渡ったりするのですが、最終的にサトーハチローの招きで劇団の文芸員となりました。

やがて、菊田一夫はサトーハチローから脚本を書くように命じられ、忠臣蔵のパロディー「阿呆疑士迷々傳」を書き上げてヒットさせ、脚本家としての道を歩み始めます。

その後、菊田一夫は劇団を転々とし、古川ロッパ一座で座付き作家をしていたとき、NHKのラジオドラマ「当世五人男」の脚本を手がけ、作曲家の古関裕而と出会いました。

2人は吃音(どもり)で、下戸(酒が飲めない)だった事もあり、意気投合し、舞台の仕事も一緒にするようになりました。

このころ、菊田一夫は、東宝の小林一三から「アチャラカ(喜劇)の天才」と絶賛されたのですが、戦争の影響で喜劇は減っていきます。

その一方で、菊田一夫は、当時流行していた「中間演劇」路線を確立していくのでした。

■古関裕而と再会

戦後、菊田一夫は疎開先から戻り、脚本家としての活動を再開するのですが、戦争犯罪者に脚本を書かせるなという批判が起きました。

そこで、菊田一夫は戦争犯罪者としてGHQに自首すると、担当者は自首してきた人間は初めてだと驚き、アメリカの法律では有罪判決が下るまでは無罪だと言い、仕事を続ける事を許可しました。

昭和20年10月、菊田一夫はNHKラジオドラマ「山から来た男」を手がけることになり、古関裕而と再会しました。

戦後、菊田一夫や古関裕而などが戦争犯罪者として処分されるという噂はあったのですが、最終的に処分はされませんでした。

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■鐘の鳴る丘

昭和22年の春、菊田一夫は、GHQのハギンス少佐から、戦災浮浪児救済を目的とした15分のラジオドラマの制作を命じられます。

毎週、土曜日、日曜日の放送で、半年間という条件でした。

このころ、アメリカの放送は15分番組が多かったので、GHQは日本のラジオ番組をアメリカ式の15分にしようとしており、時間を1秒でもオーバーしたら斬首という厳しい条件が付いていました。

菊田一夫は、長いのは得意で、短いのは苦手だったうえ、日本語と英語の違いから、日本語だと最低でも20分は必要だと言い、ラジオドラマを断りました。

しかし、菊田一夫は、ハギンス少佐から「お前は被占領国の国民だ」と言われ、ラジオドラマを引き受けます。

こうして、菊田一夫は、作曲家の古関裕而とタッグを組み、昭和22年7月22日に「鐘の鳴る丘」の放送を開始すると、全国的な大ヒットとなりました。

やがて、約束の半年間を迎えようとしたのですが、番組が大ヒットしていたので、ハギンス少佐が、放送日を平日5日間へ変更し、期限も無期限とすると言いました。

(注釈:ヒット番組を作ると、担当したハギンス少佐の出世に繋がるようです。)

菊田一夫は放送期間の延長を断るのですが、ハギンス少佐から「ポツダム宣言は知っているか」と言われ、無条件降伏を余儀なくされました。

菊田一夫は「鐘の鳴る丘」の影響で、教育者のような評価を受けるようになるのですが、GTHQの占領方針の転換もあり、「鐘の鳴る丘」は娯楽番組へと成り下がってしまいました。

菊田一夫は、能勢妙子の不倫問題を大きく報じられたため、子供達への影響を懸念し、何度も番組の降板を申し入れたのですが、ハギンス少佐は許可しませんでした。

しかし、ハギンス少佐が転勤したこもあり、菊田一夫は「鐘の鳴る丘」を昭和25年12月29日に終わらせました。

なお、菊田一夫は「鐘の鳴る丘」に登場する「雪男のテーマ」を気に入り、古関裕而と相談して、「イヨマンテの夜」を作曲しました。

古関裕而が「イヨマンテの夜」に曲を付け、伊藤久男の歌でレコードを販売しました。

当初は全くヒットしなかったのですが、伊藤久男は「イヨマンテの夜」を歌い続けていると、「NHKのど自慢」で「イヨマンテの夜」を歌う人が多く現われるようになり、「NHKのど自慢」から火が付いて爆発的にヒットしました。

さて、菊田一夫は「鐘の鳴る丘」を終えると、ラジオドラマ「さくらんぼ大将」を手がけるのですが、泥沼の末に能勢妙子の方も離婚が成立し、念願が叶って昭和26年11月に能勢妙子と再婚したので、ラジオドラマからの引退を決めました。

■君の名は

菊田一夫は、ラジオドラマを書き続けてきたし、能勢妙子とも再婚できたので、ラジオドラマから引退することにしました。

NHKの吉川義雄がGHQの担当者メレディスと交渉すると、担当者メレディスは「時間が無い。次の作品の題名は?」と問いました。

すると、「題の名前?」と思った吉川義雄は、言葉に詰まって、「お前の名はメレディスというのか」と怒り、とっさに「君の名は・・・」と、つぶやきました。

すると、メレディスは「What your name?いい題名だ」と言いOKを出し、タイトルが「君の名は」に決まりました。

さて、菊田一夫は「鐘の鳴る丘」で子供の戦争体験を書いたので、「君の名は」では大人の戦争体験を書くことにしました。

このため、当初は人気が無かったのですが、半年ほどして、後宮春樹と氏家真知子のラブストリーが描かれるようになると、「君の名は」は一転して人気が出始めて大ヒットし、国民的なドラマへと発展しました。

古関裕而も「君の名は」を手がけているのですが、特に紹介するほどのエピソードはありません。

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■演劇界の天皇

昭和30年、菊田一夫は東宝の小林一三に招かれ、東宝の取締役に就任し、盟友・古関裕而と共に舞台の仕事を手がけるようになります。

菊田一夫は山崎豊子原作の「暖簾」「花のれん」などをヒットさせ、大坂物の名手となりました。

森光子を発掘し、「放浪記」の主演に抜擢したのも菊田一夫で、日本で初めてのブロードウェイ・ミュージカルとなる「マイ・フェア・レディ」の上演も手がけました。

昭和41年には、「スカーレット(風と共に去りぬ)」の脚本を手がけ、世界初の舞台化して、帝国劇場で上演した。

菊田一夫は「演劇界の天皇」と呼ばれる一方で、宝塚ジェンヌや女優を愛人としており、数多くの女性から愛されました。生涯で10数人の愛人が居たようですが、最後の愛人・西尾恵美子に捨てられてしまいます。

晩年、菊田一夫は糖尿病が悪化して入院し、次第に仕事が減っていき、昭和48年(1973年)1月に脳卒中で倒れて入院します。

しかし、菊田一夫は透析を拒否し続け、昭和48年4月4日に、入院先の慶應義塾大学病院で死去しました。65歳でした。

死因は、糖尿病の悪化による脳卒中でした。

死後、「演劇界の天皇」に相応しい葬儀が行われ、盟友・古関裕而も葬儀で指揮棒を振り、「今日を限りの」の主題歌を演奏しました。

なお、朝ドラ「エール」の実話やモデルのネタバレは「朝ドラ「エール」のモデルとあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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