エール-医師・永田武(吉岡秀隆)のモデルは永井隆

NHKの朝ドラ「エール」に登場する医師・永田武(吉岡秀隆)のモデルのネタバレです。

朝ドラ「エール」の実話やモデルのネタバレは「朝ドラ「エール」のモデルとあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■エール-永田武(吉岡秀隆)

永田武(吉岡秀隆)は長崎県の医師で、原爆の被爆者の治療を行い、著書「長崎の鐘」を出版します。

そして、著書「長崎の鐘」が切っ掛けとなり、古山裕一(窪田正孝)と出会うことになります。

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■永田武(吉岡秀隆)のモデルは永井隆

永田武(吉岡秀隆)のモデルは、長崎県の医師・永井隆です。

永井隆は、明治41年(1908年)2月3日に島根県松江市で医者の息子として生まれ、松江高校を卒業して長崎医科大学へと進学しました。

内科を希望していたのですが、急性中耳炎になって右耳が不自由になり、聴診器が使えないとため、内科を諦めて物理的療法科へと転向し、放射線(レントゲン)を学んで、卒業後は医師として活躍するようになります。

永井隆は昭和9年6月にキリスト教の洗礼を受け、同年8月にクリスチャンの森山緑と結婚しました。

さて、永井隆は長崎県に投下された原爆で被爆した医師として有名なので、解説本でも原爆で被爆したような書き方をされる事が多いです。

もちろん、原爆で被爆したことは嘘ではありませんが、実際は戦時中に従事したX線検診によって被爆しており、昭和20年6月に白血病と診断され、余命3年の宣告を受けていました。

そして、2ヶ月後の昭和20年8月、長崎県に原爆が投下され、永井隆は原爆で被爆したのです。

永井隆は、原爆で妻を失い、自身も右側頭部動脈切断の重傷を負うのですが、被爆者の救護に従事し、昭和21年に著書「長崎の鐘」、昭和23年に著書「この子を残して」を発表しました。

著書「長崎の鐘」の発売はスムーズには行かず、ドラマ「裸の大将」のモデル山下清を支援した精神科医・式場隆三郎が、永井隆の著書発行に奔走しました。

昭和24年、その式場隆三郎が、随筆「長崎の鐘」を歌にする企画をコロムビアレコードに持ち込み、コロムビアレコードがレコードの発売を決定します。

そこで、広島の原爆で弟を失っていたサトウハチローが作詞し、古関裕而が作曲を手がけました。

歌は池真理子が吹き込む予定だったのですが、歌詞に「召されて妻は天国へ」という歌詞があったので、池真理子は男性の方が良いとして、尊敬していた藤山一郎が歌うことを希望しました。

こうして、藤山一郎が「長崎の鐘」を歌うことになったのですが、藤山一郎はレコーディングの当日、高熱を出してしまい、まともに歌える状態ではありませんでした。

しかし、式場隆三郎やオーケストラがスタジオで待っていたので、藤山一郎は無理を押してレコーディングへと向かい、「長崎の鐘」を熱唱します。

スタッフは再レコーディングを決めていたのですが、何の問題も無かったので、そのままレコードを発売しました。

永井隆は病床で、ラジオから流れてくる「長崎の鐘」を聞いて感動し、作曲した古関裕而と手紙を交換し、交流を持つようになります。

しかし、永井隆は昭和26年(昭和26年)5月1日に死去したため、古関裕而は永井隆に会うことは出来ませんでした。

■美輪明宏との関係

美輪明宏は長崎県長崎市の出身で、10歳の時に原爆を体験しています。爆心地から4kmの所に住んでいたのですが、助かりました。

永井隆の長男・永井誠一が美輪明宏と中学の同級生だったので、美輪明宏は被爆した永井隆のお見舞いにも行っています。

なお、永井隆の妻や子供については「エール-永田武のモデル永井隆と妻や子供の家系図」をご覧ください。

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