おちょやん-弟・竹井ヨシヲがヤクザになったモデル

朝ドラ「おちょやん」に登場する弟・竹井ヨシヲがヤクザになって「鶴亀」を攻撃するエピソードのモデルは、松竹と吉本興業・東宝の対立だと考えられるので、この辺の事情を解説しておきます。

■松竹と東宝の対立

「鶴亀」のモデルとなった松竹は、明治28年年に京都で創業し、京都を制覇すると、大阪へと進出して道頓堀5座を手中に収めると、道頓堀5座を根城として東京へと進出した。

吉本せいの吉本興業は、明治42年に創業し、南地花月を根城にしていた。道頓堀5座と南地花月は道を挟んだ向かいのブロックにあり、近所同士であった。

しかし、松竹は「演劇(芝居)」で、吉本興業は「演芸(漫才や落語)」だったため、対立することなく、大阪で共存していた。

そのようななか、阪急の小林一三が大正3年に宝塚で「宝塚少女歌劇」を発足して、少女歌劇ブームを起こすと、松竹の白井松次郎は「宝塚少女歌劇」に対抗して、大正11年に大阪で「松竹楽劇部(後の松竹歌劇団)」を発足した。

「東京ブギウギ」などで知られる笠置シズ子は、昭和2年に小学校を卒業して「宝塚少女歌劇」を受験したのだが、身長が足りずに落ちてしまった。

ところが、笠置シズ子が落ち込んで大阪に帰ると、近所のおばちゃんが「道頓堀でも、宝塚みないなのやってまっせ」と教えてくれたので、笠置シズ子は「松竹楽劇部」の事務所へ行き、頼み込んで「松竹楽劇部」に入れてもらった。

後に、この笠置シズ子が、吉本興業の創業者・吉本せいの息子・吉本穎右と恋に落ちることになる。

さて、「松竹楽劇部」は一足先に東京へと進出し、昭和3年に「東京松竹楽劇部」を発足。その後、「東京松竹楽劇部」は労働紛争を切っ掛けに、松竹の直轄となり、「松竹歌劇団」と改称した。

一方、阪急の小林一三は、昭和9年に「宝塚少女歌劇」を東京へと進出させ、「東京宝塚劇場」を設立し、「東宝劇団」を発足した。「東宝」は「東京宝塚」を略したものである。

さらに、阪急の小林一三はPCLなどを統合して、昭和12年に「東宝映画」を設立するのだが、このときに東宝は、松竹から映画スターの林長二郎や大河内傳次郞らを引き抜いたので、大きな遺恨を残した。

林長二郎は、東宝へ移籍して1作目の映画「源九郎義経」の撮影中に、刃物を持った男性に切りつけられるという事件が発生している。

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■松竹と吉本興業の対立

松竹は演劇で、吉本興業は演芸だったことから、対立関係ではなかったのだが、吉本興業が昭和2年に漫才で天秤座を満員にした事を受け、松竹は演芸に進出するため、吉本興業の芸人を引き抜きにかかった。

それに怒った吉本興業の林正之助が、松竹に乗り込んで抗議し、松竹に手を引かせた。当時の吉本興業は小さく、天下の松竹を引かせたので、大事件である。

その後、映画界は無声映画から有声映画へと移り変わると、人気芸人を抱えている吉本興業は、太秦発声映画や日活やPCLと提携し、芸人を映画に出演させ、映画を大成功させた。

すると、昭和11年、東宝は日活などに対抗するため、吉本興業と提携する。

そのようななか、戦争の影響で映画が統制下におかれて上映時間が制限されたため、映画の代わりに上演するアトラクションの演芸が重要になってきた。

そこで、東宝は昭和14年に吉本興業の林正之助を社外取締役として迎え入れ、吉本興業との関係を強めた。

こうした動きに対して、演芸部門が弱い松竹は、昭和14年に「新興演芸部」を設立し、札束で吉本興業から「ワカサ・一郎」「あきれほうだいず」などの看板芸人を引き抜き、演芸に進出した。

このため、松竹と吉本は泥沼の訴訟合戦となり、警察の仲介で和解したが、大きな遺恨を残しており、戦後も長らく共演NGが続いた。

しかし、1990年代に笑福亭鶴瓶が明石家さんまのTV番組「さんまのまんま」に出演し、吉本興業と松竹の共演NGが解禁され、現在は共演NGではなく、朝ドラ「おちょやん」でも吉本興業と松竹のタレントが仲良く共演している。

このようなに、松竹と吉本興業・東宝が対立していた実話を考えると、朝ドラ「おちょやん」に登場する弟・竹井ヨシヲがヤクザになって「鶴亀」を攻撃するモデルは吉本興業と東宝だと考えられる。

■「おちょやん」の今後の展開を実話で解説

戦後、吉本興業は全ての芸人を解雇し、演芸を捨て映画館やキャバレーの経営で復興していくのだが、花菱アチャコは、吉本興業の芸人が自分だけになれば、仕事を独占できると考え、吉本興業に残った。

吉本興業の花菱アチャコ

花菱アチャコの元相方・横山エンタツは、吉本興業の全員解雇で吉本興業を去り、地方巡業を経て、NHKのラジオで活躍するようになった。

そこで、NHKは、花菱アチャコをラジオに出演させ、ラジオで「エンタツ・アチャコ」を復活させようと思い、花菱アチャコに出演を打診したのだが、花菱アチャコは吉本興業で唯一の芸人だったため、吉本興業の林正之助が頑として拒否した。

しかし、NHKはなんとか吉本興業の林正之助を説得し、花菱アチャコをラジオに出演させる事に成功した。

こうして始まるのが、ラジオドラマ「アチャコ青春手帳」である。

このとき、花菱アチャコの相手役(母親役)として、朝ドラ「おちょやん」のモデルとなった浪花千栄子の名前があがった。

しかし、浪花千栄子は、2代目・渋谷天外と離婚し、「松竹新喜劇」を辞めて、京都で隠れ住んでおり、行方不明になっていた。

このため、花菱アチャコは、月宮乙女を相手役にして、「アチャコ青春手帳」の放送を開始するのだが、月宮乙女が直ぐに降板してしまう。

そこで、花菱アチャコは相手役として、浪花千栄子を指名した。

浪花千栄子は京都に居る事は分っていたので、NHKの富久進次郎が京都を探し回るのだが、浪花千栄子は見つからなかった。

時間切れを迎えたが、もう1日だけ待ってみようと言うことで、再び富久進次郎が京都へと飛んで浪花千栄子を探した。

しかし、浪花千栄子は見つからず、富久進次郎が一杯飲み屋に入り、「この辺に居るはずなのだが」と漏らすと、店主が「浪花千栄子だったら、さっき、風呂屋に入っていきましたよ」と教えてくれた。

こうして、NHKの富久進次郎は、浪花千栄子を発見し、浪花千栄子は「アチャコ青春手帳」に出演するようになると、その綺麗な大阪弁が話題となり、映画の仕事が舞い込んでくるようになり、映画女優として活躍するようになったのである。

浪花千栄子の大阪弁の解説は「おちょやん-竹井千代(杉咲花)の大阪弁のネタバレは浪花千栄子」をご覧ください。

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