長谷川博己の父と実家のネタバレ

長谷川博己の実家は、島根県松江市玉造の名門旅館旅館「保性館(ほせいかん)」だと判明しました。

■長谷川博己の実家は「保性館」

島根県松江市玉造という場所は温泉街として有名だが、元々は「勾玉(まがたま)」を作っていた場所だったので、「玉造」という地名になった。

松江市玉造の温泉を発見したのは、今から1300年前の奈良時代のことで、猟師の長谷川俊方が松江市玉造で温泉を発見した。

この長谷川俊方が長谷川博己の祖先で、長谷川家は温泉の発見を切っ掛けに、松江市玉造に住むようになったようだ。

その後、長谷川俊方は、白い鹿を見つけて射たところ、鹿が地蔵になったので、殺生はいけないことだと悟り、仏門に入った。出家した長谷川俊方は、金連上人と名乗り、鳥取県の大山寺を開山した。

一方、長谷川家は松江市玉造に残り、玉造温泉の発展に貢献し、江戸時代には松江藩から「湯之助」という役職を与えられ、玉造温泉を取り仕切った。

長谷川家は「湯之助」となった事を切っ掛けに、温泉旅館を開き、明治時代になって本格的に温泉旅館の経営を始め、明治30年に玉造温泉で最大となる「保性館」を建設した。

さらに、長谷川家は、皇族専用の旅館が必要だと考え、昭和6年に「幽泉亭(幽泉閣)」を建設した。

昭和天皇が戦後の全国巡幸をしたとき、昭和22年1月29日に「幽泉亭」に1泊しており、現在、「幽泉亭」は有形文化財に指定されている。

この玉造温泉の名門旅館「保性館(ほせいかん)」が長谷川博己の実家(正確には父親の実家)なのである。

それで、長谷川博己の父親・長谷川暁は、「保性館」を経営する長谷川家の5男なので、早稲田大学の第一文学部を卒業後、建築評論家となり、評論が認められ、武蔵野美術大学の非常勤講師となった。

そこで、武蔵野美術大学3年生の教え子・今田恵子と出会い、今田恵子と結婚し、昭和52年(1977年)3月7日に長男の長谷川博己が誕生したのである。

このように、長谷川博己の父親の実家が玉造温泉の名門旅館「保性館(ほせいかん)」なのである。

ただし、2021年1月の時点で玉造温泉の「保性館」を運営している会社は、「HMIホテルグループ」となっており、「保性館」は長谷川家の手から離れている可能性がある。

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