ブギウギ-労働紛争「桃色争議」のモデルと実話のネタバレ【ストライキ】

NHKの朝ドラ「ブギウギ」で福来スズ子(趣里)らが起こす労働紛争「桃色争議(ももいろそうぎ)」のモデルと実話のネタバレを紹介します。

ブギウギ-労働紛争「桃色争議」のあらすじとネタバレ

昭和4年(1929年)、梅丸少女歌劇団(USK)は昭和恐慌の影響を受け、リストラと賃金の削減を発表した。

梅丸少女歌劇団のスター大和礼子(蒼井優)は会社と話し合いを行うと言い、福来スズ子(趣里)らは嘆願書を提出するが、福来スズ子は会社側から、労働争議から抜けて会社側に付けば一時金を支払うと打診されてしまう。

大和礼子は、内部分裂を防ぐため、会社側との最後の話し合いが決裂すると、福来スズ子らを率いてストライキに入るのだった。

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ブギウギ-「桃色争議」のモデルと実話のネタバレ

朝ドラ「ブギウギ」で昭和4年(1929年)起きた労働紛争「桃色争議」の実在のモデルは、松竹楽劇部で昭和8年(1933年)に起きた労働争議「桃色争議」です。

昔の映画はサイレント映画(無声映画)だったため、映画のシーンや台詞を語る弁士や音楽を奏でる楽士が必要だったが、昭和4年に日本初のトーキー映画(有声映画)が上映され、昭和6年には日本語字幕が登場すると、映画館の弁士や楽士は不要となった。

そして、昭和6年に上映した松竹のトーキー映画「マダムと女房」がヒットしたことにより、日本の映画界はサイレント映画からトーキー映画へと移っていくことになる。

このころ、映画業界は「昭和恐慌」の影響を受けて不況に見舞われており、映画館は入場料を値下げしても客が入らないので、映画のトーキー化で不要となった弁士や楽士の人員整理に着手する。

これに対して、映画館の弁士や楽士は、労働組合を結成して、「反トーキー争議」と呼ばれる労働紛争を起こした。

このようななか、昭和7年6月に映画館の弁士・楽士のリストラを成功させた松竹は、昭和8年6月に東京の「松竹少女歌劇部(SSK)」の男性音楽部員29人の解雇と全員の減給を発表した。

(注釈:松竹の少女歌劇は、映画のアトラクションという要素が強いため、映画館と密接な関係にある)

すると、以前から監督や楽士長に反感を持っていた東京の松竹楽劇部の女生徒らが、関東映画劇場従業員組合に属する音楽部員と手を組んで、「斬首・減給絶対反対」「女生徒酷使するな」などと改善要求を提出し、男役スター「水の江瀧子」を争議団長としてストライキに入った。

水の江瀧子によると、音楽部員は安い給料で1日に3ステージも演奏しており、食事の時間も無いうえ、音楽ボックスは埃っぽかったので病気になる人も居たが、病気になつても見舞金も貰えず、変わりが見つかればいつ解雇されるかも分からない不安定な状況で働いており、家族を養うのもままならなかったという。

そして、水の江瀧子は音楽部員を応援するためにストライキが始めたため、女生徒らの改善要求は生理休暇など数点だったが、本格的な左翼が介入してきたため、ストライキ側の要求が大きくなったのだという。

一方、大阪の松竹楽劇部も東京のストライキを受けて、待遇に不満を持っていた女生徒らが、全労大阪連合会の支援を受けて松竹に改善要求の嘆願書を提出すると、日本橋の立花屋旅館を本部とし、スター飛鳥明子を争議団長にしてストライキに入った。

飛島明子によると、最初の2年間は無給で、その代わりに勉強をさせてもらえる約束だったのだが、人によっては2~3ヶ月で舞台に出され、その臨時手当が1週間に3円50銭、1日当たり50銭(1ヶ月で15円)で、交通費や食費も生徒持ちだったという。

このころ、東京の小学校の教師の初任給が45~55円で、うな重が50銭、うどん1玉5円だったので、一般的な職業なら1ヶ月15円で生活はできるかもしれないが、笠置シヅ子らの場合は交通費なども自腹なので、生活は出来なかったと思われる。

ブギウギ-桃色争議の実話の結末

さて、映画館の人員整理に成功していた松竹は、少女らのストライキに対して強気の姿勢を取り、切り崩し工作で東京の争議団で副団長を務める津阪織江(オリエ津阪)を味方に付けるとともに、水の江瀧子の解雇と東京松竹楽劇部の解散を発表した。

すると、水の江瀧子らは、松竹からの切り崩し工作を警戒して、神奈川県の湯河原温泉へと逃れて旅館に籠城する。

一方、大阪の争議団も松竹からの切り崩し工作を避けるため、大阪を抜け出して、化粧道具やお菓子を持って高野山に立て籠もった。

笠置シズ子も大阪の争議団のメンバーとして高野山で籠城したようだが、笠置シズ子が会社側にどのような不満を持っていたのか、どのような要求をしたのか、などは不明である。

さて、松竹は強気の姿勢を取っていたが、少女が労働紛争を起こしたことから、新聞が「桃色争議」とかき立てており、世間は少女らに同情し、松竹系の劇場は客入りが悪くなってしまい、ライバルの宝塚少女歌劇団が得をするだけだった。

さらに、高野山の僧侶が仲裁に入ったこともあり、笠置シズ子らが高野山に立て籠もって12日後に、笠置シズ子らが嘆願書を撤回し、松竹が待遇改善を約束することで和解した。

大阪の争議団は事実上の勝利ということで、笠置シヅ子らは、高野山を降りると、大勢のファンの前で万歳を三唱し、道頓堀の松竹系の劇場を練り歩き、劇場の前で万歳三唱をして、本部となっていた立花屋旅館で解散した。

一方、東京では、「桃色争議」の裏で左翼が暗躍しているということで、争議団の水の江瀧子ら46人が検挙されるという自体に発展したため、松竹側が改善要求の一部を受け入れる形で、ストライキを解決した。

松竹はストライキの処分として、東京松竹楽劇部を解散し、松竹本社直属の「松竹少女歌劇団」を発足するとともに、「松竹少女歌劇学校」を設立した。

また、松竹はストライキの処分として、東京の責任者だった水の江瀧子を解雇して、会社側についていた津阪織江を売り出そうとしたが、ファンが水の江瀧子を支持したため、松竹は水の江瀧子を復帰させた。

一方、大阪の争議団でリーダーを務めた飛島明子は、桃色争議の処分で解雇されるが、笠置シヅ子ら争議団が飛島明子を教師として雇い入れるように嘆願していたので、飛島明子は解雇後、松竹楽劇部の教師となり、振り付けを担当した。

しかし、桃色争議から4年後の昭和12年(1937年)8月に、飛鳥明子は29歳の若さで死亡した。

朝ドラ「ブギウギ」に登場する大和礼子(蒼井優)のモデルが飛鳥明子なので、大和礼子(蒼井優)がモデル通りなら、「桃色争議」の後に死去するかもしれない。

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ブギウギの「桃色争議」の実話のネタバレ余談

昭和の初め頃、宝塚少女歌劇団の給料は月給15円くらいだったらしいので、「桃色争議」を起こした松竹楽劇部と給料はほぼ同じだった。

ただ、宝塚少女歌劇団は宝塚音楽学校の延長線上という扱いで、宝塚少女歌劇団の団員は女優ではなく「生徒」という扱いだったので、いくら人気が出ても女優のような給料は貰えなかった。

宝塚少女歌劇団の場合は、月給15円では生活が出来ないので、実家からの支援を前提としており、入学試験で実家の審査があり、実家が裕福でなければ、入学できなかったらしい。

このため、宝塚少女歌劇団の生徒は良家のお嬢様が多かったので、待遇は松竹楽劇部でも、ストライキは起きなかったと言われている(ただし、戦後は宝塚少女歌劇団でも労働紛争が起きている)。

なお、笠置シヅ子は宝塚少女歌劇団の試験を受けたが、身長が足りずに身体検査で落ちたということになっているが、これには別説がある。

宝塚少女歌劇団は実家が裕福で行ければ入れないため、笠置シヅ子は実家が風呂屋(銭湯)だったので、実家の審査で落ちたというのだ。あくまでも噂だが。

なお、朝ドラ「ブギウギ」の登場人物のモデル一覧は「ブギウギ-実在のモデル一覧」をご覧ください。

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