南極物語-朝日新聞の矢田喜美雄が南極学術探検隊を提唱

樺太犬タロ・ジロで有名な「南極物語」の実話の第2話「朝日新聞の矢田喜美雄が南極学術探検隊を提唱」です。

このページは「南極物語-日本が南極観測に参加する経緯」からの続きです。

南極物語の実話の目次は「南極物語-実話のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

南極物語-朝日新聞の矢田喜美雄の提唱

1954年(昭和29年)9月30日、ローマで第2回・国際地球観測年特別委員会(CSAIG)が開催される。同委員会はノックス海岸に基地がないことから、各国にノックス海岸での観測を呼びかけた。

1955年(昭和30年)3月、連載記事「北極と南極」を手がけていた朝日新聞社会部の記者・矢田喜美雄は、国際地球観測年特別委員会(CSAGI)が各国に南極観測事業を呼びかけている情報を入手した。

普通の記者ならこの特ダネを記事にするところだが、矢田喜美雄は南極観測事業を記事にせず、上司に朝日新聞が南極観測を支援する計画を訴えた。

矢田喜美雄の計画は、朝日新聞が1億円を出して科学者を南極へ送り、科学者は南極で観測に専念するという「南極学術探検」計画で、朝日新聞は、科学者を支援する見返りとして、「南極学術探検」を独占報道するものだった。

普通なら、このような無謀な企画は一蹴されるところだが、朝日新聞の専務・信夫韓一郎は、矢田喜美雄の計画にうなずいた。

朝日新聞は、1912年(明治45年)の陸軍中尉・白瀬矗(しらせのぶ)を隊長とする日本初の南極体験隊を後援した過去があり、南極とは縁が深かった。

また、1937年(昭和48年)には、九七式偵察機「神風号」による東京-ロンドン間の飛行を企画して成功させており、高い技術と企画力とを持ち合わせていた。

記者・矢田喜美雄の突拍子もない提案が認められたのも、朝日新聞にこういった歴史があったからかもしれない。

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朝日新聞が氷の棒で学者の頭を叩きに来た

朝日新聞は、南極学術探険の企画が決まると、日本の大学教授らで組織する「日本学術会議」の会長の茅誠司(かやせいじ)や、日本の「国際地球観測年研究連絡委員会」の代表幹事・永田武に、南極学術探検計画を持ちかけた。

南極観測は科学者の夢だったが、国は原子力事業を推進しており、南極事業にはお金を出さない。

朝日新聞が資金を援助してくれるのなら…。

南極観測を諦めかけていた茅誠司や永田武は、朝日新聞の企画に賛同した。

その前年、国は突然、原子力に2億3500万円の予算を組で、中曽根康弘が「あなたたち学者がボヤボヤしているから、札束でほっぺたをひっぱたいてやるんだ」と言った事件があった。

このため、朝日新聞から南極学術探検を持ちかけられた茅誠司は、「昨年は政治家が札束で学者の頬をひっぱたきに来たが、今年は朝日新聞が氷の棒で学者の頭を叩きに来た」とジョークを飛ばしたという。

こうして、正式に南極学術探検計画を決定した朝日新聞は、観測部門を半沢朔一郎に任せ、設営部門を矢田喜美雄に任せ、朝日新聞が日本学術会議を支援する南極学術探検計画が動き出したのである。

南極物語-ソ連(ロシア)の反対

1955年(昭和30年)7月6日、パリで第1回南極会議(パリ会議)が開催される。

朝日新聞の支援を受けることになった「日本学術会議」の茅誠司は、南極のノックス海岸の観測を希望する。

しかし、ノックス海岸に基地(ミールヌイ基地)を建設するソ連(ロシア)が、日本の計画に反対したため、敗戦国の日本は計画の変更を余儀なくされる。

そこで、第1回南極会議は、日本に南極の「ピーター1世島」の観測を勧告するのだった。

しかし、永田武は、日本の自然科学のレベルは高く、南極観測をするのなら、南極大陸へ行くべきだと考えていた。

そこで、茅誠司は朝日新聞の半沢朔一郎に相談すると、半沢朔一郎は「南極大陸で観測をやるべきだ」と答え、永田武や茅誠司らと見解が一致する。

そこで、半沢朔一郎は南極ウィルクスランドでの観測を提案したのであった。

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南極物語-日本の南極観測の参加決定

ピーター1世島での観測を勧告されていた日本は、南極大陸での観測を希望し、1955年(昭和30年)8月13日に開催された国際地球観測年研究連絡委員会・第11分科会で、「アデア岬」や「プリンスハラルド海岸」での観測を希望する。

そして、日本学術学会の茅誠司は、日本の参加を正式に表明するため、南極観測について各省庁に協力を要請し、日本国内で足場を固めると、日本学術会議で決を採った。

茅誠司は「日本は南極観測に従事することを決定します。それで良いですか」と述べるが、参加者の誰からも声が挙がらない。

数度、問いかけても会場からの返事は無いため、茅誠司は「それでは決定します」と言い、南極観測への参加を決定する。

その一方で、各省庁にも協力を要諦して、茅誠司は莫大な予算を獲得する事に成功するのだった。

南極物語-戦勝国の反対

1955年(昭和30年)9月8日、長谷川万吉と永田武など数名が第2回南極会議(ブリュッセル会議)に出席する。第2回南極会議に参加していたのは、日本を除けば、全て戦勝国だった。

永田武は日本初の南極探検隊「白瀬探検隊」の実績を示し、南極観測への参加を正式に表明するが、南極に領土権を主張する国々が日本の参加を反対する。

特に、第2次世界大戦で遺恨を持つオーストラリアとニュージーランドの2国は「日本は国際舞台に復帰する資格が無い」と猛反対した。

しかし、外務省や朝日新聞は各国と折衝して、永田武を援護。永田武はアメリカ主席代表のカプラン教授や、ソ連(ロシア)代表のベローソフ教授の協力を得て、なんとか日本は南極観測への参加を取り付けた。

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南極物語-プリンスハラルド海岸に決定

日本の参加が正式に決定すると、観測地帯の割り当てが始まった。既に各国が南極に基地を建設しており、日本は観測の空白地帯を埋めることが求められる。

ノルウェーは南極大陸に領土権を主張していたが、国力不足により南極観測の不参加を表明していたので、南極大陸には観測の空白地帯が出来ていた。

そこで、この空白地帯を日本に割り当てる案が出た。

すると、永田武は学者仲間のアメリカのサイプル教授やフックス博士と相談して、空白地帯となっているプリンス・ハラルド海岸で観測することを希望した。

こうして、第2回南極会議は日本に対して、プリンス・ハラルド海岸での観測を勧告し、日本の観測場所がプリンスハラルド海岸に決定したのである。

しかし、南極のプリンスハラルド海岸は、大国のアメリカやイギリスが7度の接岸に失敗しており、「インアクセシブル(接岸不能)」と評価された難所中の難所だった。

南極物語-朝日新聞の南極学術探検が国家事業へと発展」へ続く。

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