プリンスハラルド海岸はインアクセサブル
樺太犬のタロ・ジロの置き去り事件で名な実話「南極物語」あらすじとネタバレの「プリンスハラルド海岸はインアクセサブル」編です。目次は「南極物語のあらすじとネタバレ」です。
このページは「南極物語と第1回南極会議のネタバレ」からの続きです。
ピーター1世島での観測を勧告されていた日本は、1955年(昭和30年)8月13日に開催された国際地球観測年研究連絡委員会・第11分科会で、「アデア岬」や「プリンスハラルド海岸」での観測を希望していた。
日本学術学会の茅誠司は、日本の参加を正式に表明するため、南極観測について各省庁に協力を要請し、日本国内で足場を固めると、日本学術会議で決を採った。
茅誠司は「日本は南極観測に従事することを決定します。それで良いですか」と述べるが、参加者の誰からも声が挙がらない。
数度、問いかけても会場からの返事は無く、茅誠司は「それでは決定します」と言い、南極観測への参加を決定したのであった。
1955年(昭和30年)9月8日、長谷川万吉と永田武など数名が第2回南極会議(ブリュッセル会議)に出席する。第2回南極会議に参加していたのは、日本を除けば、全て戦勝国でだった。
永田武は日本初の南極探検隊「白瀬探検隊」の実績を示し、南極観測への参加を正式に表明する。
しかし、南極に領土権を主張する国々が日本の参加に反対する。特に、第2次世界大戦で遺恨を持つオーストラリアとニュージーランドの2国は「日本は国際舞台に復帰する資格が無い」と猛反対した。
外務省や朝日新聞は各国と折衝して、永田武を援護。永田武はアメリカ主席代表のカプラン教授や、ソ連(ロシア)代表のベローソフ教授の協力を得て、南極観測への参加を取り付けた。
日本の参加が決定すると、観測地帯の割り当てが始まった。既に各国が南極に基地を建設しており、日本は観測の空白地帯を埋めることが求められていた。
ノルウェーは南極大陸に領土権を主張していたが、国力不足により南極観測の不参加を表明しており、南極大陸には観測の空白地帯が出来ていた。この空白地帯を日本に割り当てる案が出た。
同会議には、永田武の学者仲間であるアメリカのサイプル教授やフックス博士が参加しており、永田武はサイプル教授らからアドバイスを受け、空白地帯となっているプリンス・ハラルド海岸で観測することを希望した。
そして、第2回南極会議は日本に対して、プリンス・ハラルド海岸での観測を勧告し、日本の観測場所がプリンスハラルド海岸に決定したのである。
「朝日新聞の南極学術探検のあらすじ」へ続く。
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