西堀栄三郎が南極観測隊の副隊長に就任
カラフト犬のタロ・ジロで有名な実話「南極物語」のあらすじとネタバレの「南極観測隊の副隊長は西堀栄三郎」編です。目次は「南極物語のあらすじとネタバレ」です。
このページは「永田武を第1次南極観測隊の隊長に任命」からの続きです。
第1次南極観測隊の隊長となる永田武は、東京大学の教授で、地球磁気の研究でノーベル賞候補にもなった一流の科学者だった。しかし、プロの探検家ではなく、設営の重要性を理解していなかった。
第1次南極観測隊は南極大陸に昭和基地を建設して帰ってくる。そして、国際地球観測年(IGY)の本番にあたる第2次南極観測隊が越冬する。それが当初の計画だった。
永田武らは南極へ行くために東奔西走するなか、あることに気付く。1年間、南極で観測をするということは、南極で1年間、生活することになる。南極で生活することなど、誰も考えていなかった。
当初の予定では、南極で観測を行うの者は科学者ばかりだった。科学者は研究のために山に登ることはあるが、本格的な探検となると素人だった。南極観測には設営のプロが必要だ。
困った茅誠司は、日本山岳会に相談した。そこで、日本山岳会が推薦したのが、京都大学山岳部出身のカリスマ探検家・西堀栄三郎(正確には「西堀榮三郎」=にしぼり・えいざぶろう)だったのである。
西堀栄三郎は東京電気(現在の東芝)の元技術者で、東京電気時代に真空管「ソラ」を開発した人物だった。当時、ニッケルが不足していたため、トタン屋根を使って真空管「ソラ」を製造できるように工夫するほどのアイデアマンだった。
その一方で、カリスマ探検家としても知られていた。西堀栄三郎は京都大学山岳部時代に桑原武夫や今西錦司らとともに、数々の山に上った登山家で、「雪山讃歌」の作詞も手がけていた。
また、西堀栄三郎は、後にネパール政府の要人となる学生を下宿させていた縁で、単身で鎖国状態が続くネパールに乗り込み、ネパール政府の要人からマナスル山の登頂許可を取りつけ、マナスル登頂に貢献した登山家だった。
それに、西堀栄三郎は日本で最も南極に精通した人物でもあった。西堀栄三郎は明倫小学校時代に兄に連れられて、日本初の南極探検家・白瀬矗(しらせ・のぶ)陸軍中尉の講談を訊き、南極に対して強い憧れを持っており、アメリカ留学中に南極について学んでいた。
当時、極地研究と言えば北海道大学が最先端で、北海道大学出身の朝日新聞記者・加納一郎が極地研究の第1人者であったが、加納一郎は高齢だった。
越冬隊長の西堀栄三郎が日本を出発時の年齢が53歳と高齢だったが、加納一郎はさらに年上だったということもあり、日本山岳会は西堀栄三郎を推薦した。
(加納一郎は西堀栄三郎に南極行きについてアドバイスし、樺太犬の訓練などを担当している。)
西堀栄三郎は優れた先見の明があり、「真夜中のニワトリ」と呼ばれる人物だった。西堀栄三郎をおいて適任者はいなかった。茅誠司は、西堀栄三郎を第1次南極観測隊の副隊長として迎え入れる。
こうして、西堀栄三郎が第1次南極観測隊に加わったことにより、南極観測事業の計画は大きく変わっていくのであった。
「南極物語-第1次越冬隊が発足した経緯」へ続く。
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コメント欄
南極探検に参加した安藤久雄氏とJICA業務(アフリカでの地下水調査)で出会いがあります。安藤氏が参加した年次を是非教えてください。
また南極探検の本当の意味が何なのでしょう。本プロジェクトは平成24年現在に至るも続行中とおもいます。難局調査の本意は何ですか。
佐藤勝衛さんへ
「安藤久雄」では確認できませんでした。「安藤久男」であれば、第10次越冬隊に参加しています。詳しい情報は、国立極地研究所に問い合わせれば、分かると思います。
南極観測の目的については、時代と供に変わっているため、一概には言えません。
第1次南極観測隊は、朝日新聞が「戦後の雰囲気に風穴を開けよう」という趣旨で「南極学術探検」を企画したものが、資金面の問題などから、国家事業に発展したのもです。
好意的な記述で好感が持てますが、少し間違いが目につきます。北大出身の加納さんは教授ではありません。朝日新聞の記者だったと思います。そのほか、吟味のほどよろしくお願いします。(南米コロンビアより)
■末松日出雄さんへ
ご指摘ありがとうございます。加納一郎さんの経歴を「北海道大学出身の朝日新聞記者」に変更しました。
なお、詳細な部分には多少の間違いがあるかもしれませんが、これは参考にした資料が間違っていたり、資料収集や執筆時間に限界があるために発生する問題です。情報提供を頂いたカ所は随時訂正しておりますが、個人で細々と運営しているブログなので、詳細については、多少の間違いはご了承いただければ幸いと思います。
西堀栄三郎著の『南極越冬記』(岩波新書)の本当の執筆者は、故梅棹忠夫氏(1920~2010)です。これは生前の梅棹氏から直接聞きました。また西堀氏の三男の峯夫氏(2013年3月9日他界)からも聞きました。
■安井亮さんへ
本多勝一がゴーストライターだったという噂を聞いたことがあるのですが、本当は梅棹忠夫さんがゴーストライターだったんですね。貴重な情報をありがとうございます。