永田武が南極のオングル島へ上陸して昭和基地を宣言
作間敏夫が南極大陸へ行く「南極物語」のあらすじとネタバレの「永田武が南極のオングル島へ上陸して昭和基地を宣言」編です。
このページは「南極物語の黒幕は朝日新聞」からの続きです。南極物語のトップページは「南極大陸のあらすじとネタバレ」です。
1957年(昭和32年)1月25日、バリバリと氷を割りながらリュツオ・ホルム湾を進んでいた南極観測船「宗谷」が止まる。これ以上は進めなくなり、接岸となった。
越冬隊の隊長・西堀栄三郎は、セスナ機「さちかぜ(さち風)」を飛ばして、基地建設地を探すために偵察へ出る。越冬するためには最低でも100トンの物資を運ばなければならない。南極大陸は遠すぎる。やはり、基地を建設するならオングル島か。
西堀栄三郎は出発前からオングル島への基地建設を考えていた。しかし、西堀栄三郎が雪上車で偵察に出てみると、パドル(池に張った氷)の状態が悪い。これではオングル島も物資の輸送が難しい。
1957年1月29日、南極観測隊の隊長・永田武ら一隊が、西オングル島へ上陸する。永田武が、西オングル島の「N基地」に日章旗を掲げ、上陸を宣言するとともに、基地を昭和基地と命名した。
N基地とは、西堀栄三郎が基地建設候補地に挙げた場所で、西堀栄三郎の頭文字Nを取って「N基地」と呼んでいた。
一方、W基地とは、渡辺兵力が基地建設候補地に挙げた場所で、渡辺兵力の頭文字Wを取って「W基地」と呼んでいた。
基地建設候補地が決まらぬまま永田武が上陸式を決行したことで、第1次南極観測隊に不穏な空気が流れる。
そのようななか、一部の隊員が宗谷に近い弁天島(グレン島)への基地建設を主張し始めた。弁天島は、西オングル島から10kmほど離れた場所にある小さな島で、宗谷からは5kmほどの距離にあった。
確かに弁天島は近いが、基地を建設するには小さい。それに、今後の調査のことをなどを考えると、弁天島は基地の建設には適さなかった。
話し合いでは結論が出ず、1957年1月31日に永田武と西堀栄三郎と松本満次の3人が弁天島を視察する。
弁天島は近いが、狭いうえ、切り立った崖で荷揚げが困難だったため、西堀栄三郎は「基地の建設は困難だ」と判断する。永田武ら3人の意見が一致し、弁天島案は棄却された。
一方、オングル島は状況は、西堀栄三郎が偵察した時とは状況が一変し、氷の状態が良くなっていた。物資の輸送が可能との判断が下り、オングル島への基地建設が決定する。
ようやく、基地建設地がオングル島に決定するが、基地建設計画でも意見が対立した。
「全勢力で基地の建設に取り組む」という意見に対して、一部の隊員が「少しでも長く観測したい。観測のために基地の建設が遅れても止むを得ない」と主張したのである。
このため、1957年2月7日から2月11日の間は、基地建設と観測とを平行し、その他の期間は全員で基地の建設に従事することになった。
1957年1月31日、正式な手続きを経て、基地の名称が「昭和基地」に決定し、1957年2月1日から東オングル島の「W基地」にて昭和基地の建設が始まった。
オングル島には、昭和基地の建設候補地は数カ所あった。永田武は西オングル島のN基地で上陸を宣言したが、実際に昭和基地を建設した場所は、渡辺兵力が候補地に揚げた東オングル島のW基地だった。
1957年2月11日、作間敏夫が昭和基地に無線機の設置を終る。南極観測船「宗谷」との通信を成功し、日本内地との通信にも成功する。これで、越冬に大きく近づいた。
第1次越冬隊の重要な任務は、第2次越冬隊(本観測隊)のために南極の情報を日本へ送ること(越冬隊報告=通称「エホク」)だった。このため、日本との通信を成功させることは、越冬隊を成立させる要件の1つだった。
順調に資材の荷揚げは進み、昭和基地の建設も進んだ。第1次南極観測隊の越冬隊成立にも見通しが付いた。
そして、宗谷の離岸を明日に控えた1957年2月14日、第1次南極観測隊の隊長・永田武は、現地判断となっていた越冬計画の成立を宣言して、西堀栄三郎を隊長とする第1次越冬隊を結成したのである。「日本人で初めて南極大陸へ上陸するネタバレ」へ続く。
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