ソ連の「オビ号」が南極観測船「宗谷」を救出

ソ連のオビ号が宗谷を救出する実話「南極物語」のあらすじとネタバレの「ソ連のオビ号が南極観測船『宗谷』を救出」編です。目次は「実話『南極物語』のあらすじとネタバレ」です。


このページは「芦峅寺5人衆が日本人で初の南極大陸上陸を達成」からの続きです。
接岸中の南極観測船「宗谷」は、天候が悪化すればいつでも離岸できる体制をとっていた。しかし、港運にも好天候が続き、離岸予定日の1957年(昭和32年)2月15日を迎えた。
第1次越冬隊長の西堀栄三郎は「もう少し物資を搬送したい。離岸日を延長して欲しい」と要請する。
しかし、離岸日は変わらない。長く留まれば、離岸できなくなる危険も出る。第1次南極観測隊(夏隊)を無事に帰国させることも、南極観測船「宗谷」の船長・松本満次にとっては重要な任務なのである。
1957年(昭和32年)2月15日午後2時、第1次越冬隊11人を昭和基地に残した南極観測船「宗谷」は、大きな汽笛を鳴らしてオングル島を離岸する。
宗谷は離岸の2日前にセスナ機「サチ風」を飛ばして、海上偵察をしており、そのとき見つけた航路を進む。しかし、調査時とは海の状況が変わっており、海面にアイスパック(氷)が出現していた。
離岸日は、乗組員も荷揚げに当たっていたため、海上偵察をしていなかった。それが失敗だった。
辺りは暗くなり、セスナ機「サチ風」を飛ばして海上偵察することもできない。海の状況が分からないため、南極観測船「宗谷」は待機する。天候が悪く、翌16日も待機となる。
往路は「航海のお守り」とされるオスの三毛猫タケシが南極観測船「宗谷」に乗っていたが、越冬隊の希望により、三毛猫タケシも昭和基地に残っていた。「航海のお守り」を下ろして離岸した宗谷に暗雲が立ちこめる。
2月17日、低気圧の影響で天候は悪いが、先を急ぐ南極観測船「宗谷」は、ヘリコプターを飛ばして海上を偵察する。
ヘリコプターからの報告を受けた宗谷はアイスパックの中へと進んでいくが、次第にアイスパックの量は増えていき、宗谷は身動きが取れなくなってしまった。
2月19日になり、西風の影響でアイスパックが流れ始める。その隙に南極観測船「宗谷」は前進を開始するが、その後、東風の影響で宗谷は再びアイスパックに取り囲まれてしまい、2月24日には身動きが取れなくなってしまった。
2月19日から2月24日までの間、南極観測船「宗谷」では各方面で様々な動きが会った。
2月19日、文部省は、身動きの取れなくなった南極観測船「宗谷」に、「近くにアメリカの砕氷船『グレーシャー号』とソ連(ロシア)の砕氷船『オビ号』の2隻が居るから救助を要請しろ」と指示する。
しかし、第1次南極観測隊には「日本単独」という方針があり、南極観測船「宗谷」は外国への救助要請を拒否し、自力での脱出を試みていた。
かつて、西堀栄三郎は南極の海に詳しい外国人オブザーバーの導入を提案していたが、宗谷乗組員はオブザーバーの提案も拒否していた。船員は船長・松本満次の元で一致団結していた。外国の手は借りない。それが海の男の心意気であった。
その一方で、南極観測船「宗谷」は外洋で待機していた随伴船「海鷹丸(うみたかまる)」と連絡を取り、第1次南極観測隊員をヘリコプターで海鷹丸へ移す計画を立てていた。
宗谷には十分とは言えないが、食料と暖房用の燃料はあった。雪を溶かせば飲料水も確保できる。隊員が宗谷内で越冬することも可能だった。
最悪の場合は、第2次南極地域観測隊の準備に必用なメンバーだけ、ヘリコプターで随伴船「海鷹丸」へ移し、残りの隊員は南極観測船「宗谷」内で越冬することにを計画していたのである。
他方、ソ連の砕氷船「オビ号」から南極観測船「宗谷」に乗っている第1次南極観測隊の隊長・永田武に電報が送られてきた。
砕氷船「オビ号」は「昭和基地の完成おめでとう。海洋調査で近くを通ので、正式に昭和基地に招待してください」と依頼してきたのである。永田武は電報で、オビ号を招待する。
実は、1957年(昭和32年)2月8日から、南極観測船「宗谷」と砕氷船「オビ号」とは毎日1回、気象観測のデーター交換をしており、交流があった。
そして、砕氷船「オビ号」は海洋調査でプリンス・ハラルド海岸の近くを通るため、昭和基地に立ち寄ろうとしていたのだった。(ただし、オビ号側のトラブルにより、訪問はできなかった)
1957年(昭和32年)2月25日になると、流れてきた氷が益々増え、南極観測船「宗谷」は前進も回頭もできなくなった。宗谷は手詰まりとなり、ソ連の砕氷船「オビ号」に救助を求める。
近くに居たソ連の砕氷船「オビ号」が救助要請に応じる。随伴船「海鷹丸」は南極観測船「宗谷」の正確な位置を砕氷船「オビ号」に知らせて誘導した。
ソ連の砕氷船「オビ号」が1957年2月28日に到着。オビ号はバリバリと氷を割る。これがソ連の黒い船か。南極観測船「宗谷」の船長・松本満次は砕氷能力の差をまざまざと見せつけられて愕然とした。
宗谷はオビ号の後ろを付いて行くが、宗谷はオビ号が砕いた氷にも四苦八苦するほどで、オビ号に付いていくのも精一杯であった。
12時間後、宗谷はオビ号の後に続いて外洋へ脱出した。外洋で海鷹丸と合流した宗谷はオビ号に感謝の意を表し、ケープタウンを目指す。
オビ号は海鷹丸に「学生の参加に敬意を表する」との電報を送って、学生乗組員に敬意を表した。(注釈:海鷹丸は東京水産大学の船で、乗組員は学生だった)
このころ日本では、アメリカの砕氷船「グレーシャー号」に救助を求めたのが2月19日であるのに対して、ソ連の砕氷船「オビ号」に救助を求めたのが2月26日だったことが「政治的配慮ではないのか」と問題となっていた。
(外務省を経由すると事務処理が発生するので、正式な依頼日は、現地の要請とは日付がずれる)
これは、第1次南極観測隊が自力での脱出に拘っために発生した問題だった。
アメリカの砕氷船「グレーシャー号」は南極観測船「宗谷」と直接通信できない位置に居たため、外務省が救援を要請していたが、ソ連の砕氷船「オビ号」はいつでも通信できる位置に居たので、宗谷が救援を要請ことになっていた。
オビ号は近くにおり、いつでも救援を要請できるため、完全に自力脱出が不可能になってから救援を要請すれば良い。
南極観測船「宗谷」の船長・松本満次はそう考えており、ギリギリまで自力で脱出を試みていた。
しかし、自力脱出が不可能となったため、ソ連の砕氷船「オビ号」に救助を求めた。だから、オビ号に対する救助要請日が遅いのである。
第1次越冬隊が南極で越冬を開始」へ続く。

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