福島紳の福島ケルンのあらすじ

実話「南極物語」のあらすじとネタバレシリーズの番外編「福島紳の福島ケルンのあらすじ」です(第4次越冬隊の話しです)。


このページは「もう1つの南極物語-猫のタケシのあらすじ」からの続きです。南極物語のトップページはは「南極物語のあらすじとネタバレ」です。
南極のオングル島には、「福島ケルン」と呼ばれる石塚がある。福島ケルンは、50年以上にわたる南極地域観測隊の歴史の中で、唯一の殉職者となった第4次越冬隊の福島紳(ふくしま・しん)をしので作った石塚である。
昭和基地では1960年(昭和35年)10月7日から天候は悪化し、1960年10月10日には記録的なブリザード(最大瞬間風速54メートル毎秒)が吹き荒れていた。
1960年10月10日、第4次越冬隊・犬係の吉田栄夫は、オーロラ係の福島紳の協力を得て、ロープで係留していた樺太犬に餌を与える。その後、2人は海岸に置いてあるソリを固定するため、昭和基地を離れた。
ブリザードは福島紳らの正面から吹きつけており、匍匐前進(ほふくぜんしん)でなければ進めない状態だった。
視界はゼロに等しく、福島紳らはソリに到達することができなかった。方向を間違ったと判断した福島紳らは、ソリの点検を諦めて、昭和基地へ戻ろうとするが、昭和基地の方向も分からなくなってしまう。
福島紳らは、3日前に捕獲したアザラシを保管庫へ持ち帰る際にできたアザラシの血の跡をたどって昭和基地を目指す。
吉田栄夫が昭和基地近くの岩まで到達したとき、福島紳とはぐれたことに気づく。吉田栄夫は自力で昭和基地にたどり着くと、昭和基地に居た村石幸彦と共に、福島紳の捜索へ向かった。
このとき、不運にももう1つの遭難が起きており、昭和基地には隊員が1名しか居なかったのである。
福島紳が遭難する3日前の1960年10月7日、ベルギー隊6名がセスナ機で昭和基地へやってきた。その後、天候が悪化し、ブリザードのためセスナ機を飛ばせず、ベルギー隊は昭和基地付近にテントを張って宿営していた。
1960年10月10日、激しいブリザードが吹き荒れるなか、ベルギー隊2名がテントを出て昭和基地へ向かうが、途中で遭難してしまったのである。
ベルギー隊からの救援要請を受けた第4次越冬隊は、捜索隊3班を編成し、行方不明になったベルギー隊の捜索へ出た。
ベルギー隊の遭難は、福島紳の遭難とほぼ同時に起きており、吉田栄夫が昭和基地に到着したときには、捜索隊3班がベルギー隊を捜索するため出払っていたため、村石幸彦しか残っていなかったのである。
ベルギー隊を捜索中の捜索隊(越冬隊)は、福島紳が遭難したことを知ると、ベルギー隊を支援しつつ、福島紳の捜索を開始する。
一方、福島紳の捜索に出た吉田栄夫と村石幸彦の2人は、激しいブリザードのため、方向性を失っていた。2人は、2次遭難を避けるため、雪原に穴を掘り、一夜を過ごした。
他方、遭難していたベルギー隊2人は、1960年10月10日の夜に、自力で昭和基地へ到着する。
1960年10月11日午後3時ごろになると、ブリザードがおさまり、天候が回復する。吉田栄夫と村石幸彦の2人は天候の回復を確認して、自力で昭和基地へと戻った。
第4次越冬隊はベルギー隊の協力を得て、セスナ機で上空からの捜索を展開するが、福島紳は発見できず。日本の南極地域観測統合推進本部は、1960年10月17日に福島紳の死亡を決定した。
第4次越冬隊は第5次越冬隊と交代するまで、福島紳の捜索を続けたが、福島紳を発見することはできなかった。
ところが、福島紳の遭難事故から7年後の1968年2月9日、西オングル島で地学調査を行っていた第9次越冬隊の隊員が、昭和基地から5km離れた小高い丘で、福島紳の遺体を発見したのである。
1968年は非常に暖かい年で雪が解け、雪に埋もれていた福島紳の遺体が現れたのだ。
福島紳が腕についけていた腕時計は、ずっと止まっていたが、福島紳の遺体が発見されると、何事も無かったかのように動き始めた。
それは、腕時計が福島紳の死んだ時間を伝えようとしているようだった。
福島紳の腕時計は、エニカ社が第4次南極越冬隊14人に寄贈した、当時最先端の防水10気圧の時計であった。福島紳は本当に水に入れても壊れないのか、時計をコップの中の水に入れて実験していたという。
その後、越冬隊は福島紳を発見した場所に石を積み上げて「福島ケルン」と名付け、毎年、南極へ来た越冬隊は福島ケルンで慰霊祭を行っている。
南極観測隊は福島紳の事故を受けて安全対策を強化し、それ以降は南極での殉職者を出していない。

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