南極越冬記のあらすじとネタバレ感想文

第1次南極地域観測隊で第1次越冬隊の隊長を務めた西堀栄三郎の小説「南極越冬記」のあらすじとネタバレを含んだ感想文です。


このページは「南極越冬隊タロジロの真実-あらすじとネタバレ感想文」からの続きです。南極大陸のあらすじとネタバレは「南極物語のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。
南極の昭和基地では、雪上車は荷物運びで活躍し、樺太犬の犬ぞりは探険で活躍した。南極での、雪上車の走行距離は計1500kmだったが、犬ぞりの走行距離は計1600kmとなっている。
雪上車の性能が悪かったという事もあるが、荷物運びで酷使したため、ボロボロになっていたというところが大きい。
荷運びで雪上車を酷使したこともあり、第1次越冬隊が引き揚げるときには、使用できる雪上車は2両となっていた。残り2両は修理のパーツ取り用になっていた。
さて、第2次南極地域観測隊は、第1次南極地域観測隊よりも3週間も早く東京を発っていた。
南極観測船「宗谷」は、第1次南極地域観測隊の帰りに、氷に閉じ込められたさい、ソ連の砕氷船「ビオ号」に救出されていた。「日本単独」を目指す南極地域観測隊は万全を期すために、出発を早めていたのだった。
にもかかわらず、リュツォー・ホルム湾に到着した南極観測船「宗谷」は、1957年(昭和32年)12月31日から始まったブリザードに襲われ、氷に囲まれて身動きが取れなくなる。そして、宗谷は氷と一緒に西へ西へと流される。
文部省の南極地域統合推進本部は、1958年(昭和33年)1月31日に外務省を通じてアメリカの砕氷船「バートンアイランド号」に救助を要請するが、ここでも「日本単独」が邪魔をする。
南極観測船「宗谷」はバートンアイランド号を待たずに自力での脱出を試みた。宗谷は1958年2月6日に外洋へ脱出することに成功するが、左舷のプロペラを破損してしまう。
結局、左舷プロペラの破損により、大きく性能を欠いた南極観測船「宗谷」は、単独での接岸が不可能となり、「接岸への救援」という名目でバートンアイランド号の協力を得ることになる。
バートンアイランド号の後に付き、宗谷は再びリュツォー・ホルム湾へ突入するのだが、バートンアイランド号も氷に阻まれて、接岸となる。
バートンアイランド号がリュツォー・ホルム湾へ突入を開始したのが、1958年2月7日で、接岸となったのが同年2月8日午後6時である。進んだ距離は、時間から推して知るべしである。
第1次南極地域観測隊は昭和基地から20kmの地点に接岸したが、第2次南極地域観測隊は昭和基地から120kmの地点での接岸となった。
第2次南極地域観測隊が荷揚げ可能な限界距離を50kmと考えていたので、120km地点までしか近づけなかったことは厳しい状況だと言える。
ときどき、南極観測船「宗谷」の性能不足を問題にする人が居るが、バートンアイランド号も120km地点でまでしか進めなかったため、宗谷の性能不足はそれほど関係は無い。
この時の宗谷の性能は4800馬力で、砕氷能力が1.2mだった。一方、バートンアイランド号の馬力は1万3000馬力で、砕氷能力は1.6mだった。
これまでのデータから計算すると、確実にオングル島へ接岸するためには、最低でも3万馬力が必要となる。宗谷を改造しても3万馬力も出ないので、確実に接岸することは不可能な話しである。
第3次南極地域観測隊は、近くで接岸できなくても輸送できるように、輸送手段を空輸に切り替え、宗谷に軍用ヘリコプター「シコルスキーS58型」2機を搭載したため、越冬隊の成立に成功している。
また、第3次南極地域観測隊は「日本単独」というコンセプトを外して柔軟になり、オブザーバーとしてアメリカからD.J.Meloyを招いている。この点も第3次越冬隊が成立した要因かもしれない。
南極越冬隊タロジロの真実-あらすじとネタバレ読書感想文の中編2」へ続く。

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