実話「南極物語」のインスタントラーメンのネタバレ

実話「南極物語」シリーズの第1次南極観測隊(予備観測隊)・越冬隊とインスタントラーメン(即席麺)についてのネタバレです。

■南極越冬ラーメンのネタバレ

日本初のインスタントラーメンは、日清食品の安藤百福が開発した「キチンラーメン」とされているが、チキンラーメンが発売される2年前の昭和31年(1956年)に南極へ行ったインスタントラーメが存在した。
その南極越冬ラーメンこそ、大阪・阿倍野で中華料理店を営んでいた東明商行の張国文が製造する即席麺「長寿麺」である。
そこで、「南極越冬猫のタケシ」に続いて、南極へ行ったインスタントラーメン「長寿麺」のエピソードを紹介したい。
・・・と思ったのだが、残念ながら、第1次南極観測隊や第1次越冬隊のインスタントラーメンのエピソードは、何も伝わっていない。
ただ、インスタントラーメンの開発秘話として、携帯食「西丸ペミカン」で有名な登山家・西丸震哉が、第1次南極観測隊で、ペミカンやインスタントラーメンの創作にかかわっていたという話が残っている。
しかし、西丸震哉は、越冬隊の隊長・西堀栄三郎と意見が合わなかったため、越冬隊から降りてしまった。
それで、インスタントラーメンの発明者は西丸震哉だという説があり、西丸震哉説について情報提供していただけたので、新たに分かったことを紹介したい。
情報提供によると、西丸震哉は南極越冬隊の食料としてインスタントラーメンを作り、関西のメーカーが商品開発するときに、西丸震哉が油が傷みやすいので注意するようになどの助言をしたそうだ。
また、時系列は不明だが、越冬隊にインスタントラーメンが不評だったらしく、西丸震哉は「こちらは喜んでもらおうと作ったんだから、こちらの気持ちも考えてそんなに不味い不味いと言わなくてもいいじゃないか」と愚痴ったそうだ(情報提供、ありがとうございました)。
この情報で特筆すべきは、西丸震哉が油についての助言をしている点である。西丸震哉が油について言及していると言うことは、この時点で、「麺を油で揚げて乾燥させる」という概念があった証拠だろう。
もっとも、台湾に麺を油で揚げた「鶏糸麺」という料理があり、台湾の「鶏糸麺」がインスタントラーメンの原型とされている。西丸震哉が台湾の「鶏糸麺」を参考して、インスタントラーメンを開発しても不思議では無い。
そして、西丸震哉が助言した開催のメーカーというのは、即席麺「長寿麺」を発売した東明商行で間違いないだろう。
おそらく、西丸震哉が越冬隊を降りた後、何らかの理由で、大阪・阿倍野で中華料理店を営んでいた東明商行の張国文がインスタントラーメンを開発を手がけることになり、西丸震哉の助言を得て即席麺「長寿麺」を開発したという経緯だろう。
そして、東明商行の即席麺「長寿麺」が昭和31年(1956年)の第1次南極観測隊に採用されたたり、ヒマラヤ遠征隊に採用された、と考えて間違いないだろう。
このように、判明している限りでは、東明商行の即席麺「長寿麺」が日本初のインスタントラーメンで、間違い無いのだが、異論もあるので、簡単に紹介する。

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■日本初のインスタントラーメン

そもそも、第2次世界大戦の時に、麺類は携帯食として研究されており、戦時中から兵隊の携帯食として即席麺のような物は存在した。
昭和30年(1955年)に、ベビースターで有名な松田産業(おやつカンパニー)が「味付中華麺」を発売しており、松田産業の「味付中華麺」を日本初のインタンとラーメンとする説もある。
しかし、戦時中に開発された携帯食や松田産業の「味付中華麺」は、味付け乾麺であり、インスタントラーメンではなく「乾麺」に分類されるのが通説である。
結局、インスタントラーメンの定義の問題になり、この定義が明確になっていないので、日本初のインスタントラーメンには色々な説があるのだが、「乾麺」は「乾麺」として区別するというのが通説である。
したがって、東明商行の即席麺「長寿麺」が日本初のインスタントラーメンと言えるのである。
では、なぜ、日本初のインスタントラーメンは、日清食品のチキンラーメンとされるのか。これがまた複雑な話である。

■日本初はチキンラーメンの理由

東明商行の「長寿麺」は、昭和31年(1956年)の第1次南極観測隊に採用されたが、商品として発売したのは昭和33年(1958年)の春である(理由は不明)。
ほぼ同時期の昭和33年の春に、東京のデパートで、大和通商が「鶏糸麺」を発売している。
そして、両社から数ヶ月遅れて、大阪の日清食品が、昭和33年(1958年)8月25日に「チキンラーメン」を発売した。
さらに、大阪の梅新製菓(エースコック)が昭和33年12月ごろに、「エースラーメン」を発売した。
昭和31年(1956年)11月8日…第1次南極観測隊が日本を出発
昭和33年(1958年)春…大和通商が「鶏糸麺」を発売
昭和33年(1958年)春…東明商行が「長寿麺」を発売
昭和33年(1958年)8月25日…日清食品が「チキンラーメン」を発売
昭和33年(1958年)12月ごろ・・・梅新製菓が「エースラーメン」を発売
このように、昭和33年(1955年)に4つのインスタントラーメンが誕生したのだが、最初に商業的に成功したのが、日清食品の「チキンラーメン」だった。
これまで、インスタントラーメンは「乾麺のまがい物」という扱いで、あまり売れていなかったのだが、「チキンラーメン」が売れたおかげで、インスタントラーメンが爆発的に売れるようになり、インスタントラーメンというジャンルが確立した。
そして、当時の法律は製法が少し違えば、特許が登録できたので、大和通商・東明商行・日清食品・梅新製菓(エースコック)の4社がそれぞれに特許を取得し、インスタントラーメン業界全体を巻き込んだ特許紛争が起きた。
しかし、最終的に日清食品が東明商行から特許を買い取り、大和通商とも和解した。梅新製菓(エースコック)は最後まで抵抗していたが、日清食品に特許を譲渡したので、最終的に日清食品が勝利した。
こうして、日清食品の安藤百福が業界団体「日本ラーメン工業協会」を設立して、理事長に就任し、インスタントラーメン業界のトップになった。
日本初のインスタントラーメンを作った東明商行の張国文は、特許を日清食品に売却した後、インスタントラーメンから撤退し、「鶏糸麺」を販売していた東京の大和通商も消えていった。
こうして、日清食品が残ったので、日清食品のチキンラーメンが日本初のインスタントラーメンになったようである。
なお、実話「南極物語」については「実話『南極物語』のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

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