第2次南極観測隊が越冬隊の成立に失敗した理由と原因
樺太犬タロ・ジロ・リキなどを南極の昭和基地に置き去りにした原因について。実話「南極物語」のあらすじは「実話『南極物語』のあらすじとネタバレ」をご覧ください。
このページは「樺太犬タロ・ジロ・リキを昭和基地に置き去りにした経緯」からご覧ください。
樺太犬タロ・ジロを置き去りにした理由は、第2次南極観測隊が越冬隊を残すことに失敗したからである。
失敗の原因は大きく分けると、「船の問題」「天候の問題」「人間の問題」がある。この問題について、簡単にまとめてみる。
■船の問題
新しく南極観測船を造るためには、当時(昭和30年)のお金で50億円が必用だった。時間も2年から3年は必用だった。
アメリカやソ連は軍艦(砕氷艦)であり、民間の砕氷船で南極観測船に必用な大きさの船はなく、国内の船を改造することになる。
そして、海上保安庁の灯台保安船「宗谷」、国鉄の鉄道連絡船「宗谷丸」、大阪商船の旅客船「白龍丸」の3隻が候補にあがった。
国鉄の宗谷丸が最も性能は良かったが、乗組員とお金の問題により、灯台保安船「宗谷」を南極観測船へ改造することになった。
こういう経緯で灯台保安船「宗谷」が南極観測船に選ばれた。灯台保安船「宗谷」は老齢18年でボロボロの船だったが、元々候補に上げていた国鉄の宗谷丸の方が古かった。
宗谷丸は1932年(昭和7年)6月23日に竣工。
宗谷は1938年(昭和13年)6月10日に竣工。
ボロボロの船を改造したため、南極観測船「宗谷」は性能は低いと思われがちだが、アメリカやソ連(ロシア)に継ぐ第3位の砕氷能力を有していた。
樺太犬タロジロを置き去りにした時の第2次南極観測船「宗谷」は4800馬力で、砕氷能力が1.2mだった。
各国の船の砕氷能力自体は不明だが、砕氷能力に重要な馬力が宗谷の半分以下の国がほとんどだった。馬力から推定すると、アメリカとソ連以外は高く見積もっても砕氷能力1m以下である。
だから、南極観測船「宗谷」が氷に閉じ込められたとき、救援を求められるのは、ソ連の「オビ号」やアメリカの「グレイシャー号」「バートン・アイランド号」くらいしかなかった。
他の国は南極観測船「宗谷」以下の砕氷能力なので、助けに来ても役に立たない。
■宗谷のエンジン
南極観測船「宗谷」は4800馬力・砕氷能力が1.2mを有していたが、エンジンはディーゼルエンジン直結方式だった。ディーゼルエンジン直結方式は始動・起動も遅く、航行速度も遅い。様々な状況で不利だった。
これに対して、外国船はディーゼルエンジン電動方式(ディーゼル・エレクトリック方式)だったため、海の状況に素早く対応でき、船足も速かった。
南極観測船「宗谷」がディーゼルエンジン直結方式になった理由は、ディーゼル・エレクトリック方式はスペースをとるから。
こうしたエンジンの性能も、第2次南極観測隊の失敗の原因の1つと言えるだろう。
■飛行機の問題
第1次南極観測船「宗谷」はセスナ機「さち風号」を搭載していたが、第2次南極観測船「宗谷」はビーバー機「昭和号」を搭載していた。
ビーバー機「昭和号」は滑走距離を必用とし、南極観測船「宗谷」から直接、飛び立てない。
このため、第2次南極観測船「宗谷」はビーバー機「昭和号」の滑走路に使えそうな海面を見つけて近づいた。そのとき、宗谷は氷に囲まれて、1ヶ月近く西へ西へと流されることになった。
身動きが取れずに流されていた間に、接岸に適している1月が終わってしまう。
十分な海上偵察が出来ていれば、接岸は出来なくても、空輸により可能性があるので、飛行機も第2次南極観測隊の失敗の原因の1つと言えるだろう。
しかし、セスナ機「さち風号」だった場合は、積載量の関係から空輸は難しいと思われる。
■指揮系統の問題
南極地域観測隊の指揮権は第1次・第2次南極観測隊の隊長・永田武(文部省)にあったが、南極観測船「宗谷」の指揮権は船長・松本満次(海上保安庁)にあった。
通例・法律などからみても、船の事故については船長が全責任を負うため、船の上での指揮権は船長にある。
このため、第2次南極観測船「宗谷」には2つの指揮系統が存在していた。船長の松本満次は独自に海上保安庁と連絡を取り合っており、隊長の永田武も知らない情報があったとされる。
隊長の永田武は松本満次の行為を「合法的である」と指摘し、「海上保安庁との連絡は本部の方でして欲しい」と南極地域観測統合推進本部に通達している。
また、第2次南極観測船「宗谷」では、バートン・アイランド号の救援に関して意見の対立が発生していたとされている。
意見の対立については、「バートン・アイランド号の救援について以外には、意見の対立はなかったと信じてる」という証言がある。対立の詳細については分からない。
このような指揮系統の不統一や意見の対立が、第2次何地域観測隊が失敗した原因の1つと言えるだろう。
■南極観測隊は混合集団
南極地域観測隊は混合集団である。観測を担当「学者」、設営を担当する「山屋(登山家)」、船を担当する「船員」の3集団の集まりだった。
学者の長は、南極地域観測隊の隊長・永田武である。永田武はかつてノーベル賞候補にも名前が挙がったほどの人物で、日本代表として国際会議に出席する学者である。
永田武が南極地域観測隊の隊長に就任したとき、日本やアメリカの学者から「永田ほどの学者を南極へ行かせるな」と苦情が来たという逸話もある。
一方、山屋(登山家)の長は西堀栄三郎である。西堀栄三郎は鎖国状態のネパールに単身で乗り込み、マナスル登山の許可を取り付けたカリスマ探検家である。
西堀栄三郎は真空管ソラを開発したり、統計的品質管理でデミング賞を受けたりした程の人物である。
他方、船員の長は松本満次である。松本満次は海上保安庁の職員で、船員は船長・松本満次の元で一枚岩となり、まさに「海の男」特有の結束があったとされている。
このように、南極観測隊には「学者」「山屋」「船乗」という3つの集団があり、それぞれ分野の専門家が集まったため、意見の相違が生じた可能性がある。
これは、指揮系統の乱立と同じく、第2次南極地域観測隊が失敗した原因の1つと言えるだろう。
■日本単独の問題
南極観測隊は、日本単独で南極観測事業を完遂しようとしており、外国の手助けを借りようとしなかった。
第1次南極観測隊および第2次南極観測隊は、外国人オブザーバーを採用していない(第3次はオブザーバーを採用している)。
越冬隊長の西堀栄三郎は、アメリカ人の船長シュロスバッハをオブザーバー(アイス・パイロット)として、第1次南極観測隊に迎えることを提案したが、南極地域観測統合推進本部は認めなかった。オブザーバーを採用しなかった理由は、心理的要因とされている。
(注釈:シュロスバッハは、バード隊に参加して何度も南極へ行ったことのある船長。)
また、第1次南極観測船「宗谷」の復路でソ連の砕氷艦「オビ号」に助けられたときも、第2次南極観測船「宗谷」の往路で氷に囲まれて身動きが取れなくなったときも、自力での脱出を試みている。
これらは、日本が自国だけの力で南極観測事業を達成し、日本の力を国際社会にアピールする目的があり、当時は重要な意味があったものと考えられる。
当初の南極観測事業には戦争経験者も多く加わっている。昭和30年代当時の心境を察することは難しいが、心理的な要因により外国からの手助けを避けていたことは間違いない。
この心理的な要因が救助の要請を遅らせた可能性があり、第2次南極観測隊が失敗した原因の1つと言えるだろう。
ただし、外国の手助けを借りずに、日本単独の力で南極観測を行おうとする行為については、当時は賞賛される行為だったようである。
■樺太犬タロ・ジロなどの置き去りの謎
左舷プロペラの1翼4分の3を欠いた第2次南極観測船「宗谷」は、単独では昭和基地があるオングル島への接岸が難しく、アメリカの砕氷艦「バートンアイランド号」の協力を得て接岸する。
そして、第2次南極観測隊はビーバー機「昭和号」による輸送と第1次越冬隊の回収を開始するのだが、接岸後にバートンアイランド号が協力したとする資料が見つからない。
このとき、バートンアイランド号は積載量1トン以上の大型軍用ヘリコプターを搭載していた。日本国内でもバートンアイランド号の軍用ヘリコプターに手伝ってもらう計画もあった。
もし、軍用ヘリコプターが物資の運搬に協力していれば、第2次越冬隊は成立していた可能性が大きい。
しかし、軍用ヘリコプターが南極観測隊を手伝った形跡が無い。第2次南極観測隊は昭和基地へ運んだ物資の量からすると、軍用ヘリコプターが物資を運んだとは考えにくい。
この辺りは、日本単独で南極観測事業を成し遂げようとする心理的要因により、バートンアイランド号に運搬の協力を求めなかった可能性がある。ただし、これについては調査中とする。
■プリンスハラルド海岸はインアクセサブル
プリンスハラルド海岸はアメリカやイギリスが7度の接岸に失敗し、アメリカが「inaccessible(インアクセサブル=接近不可能)」と報告していた前人未踏の難所だった。
他国の砕氷船が南極観測船「宗谷」よりも砕氷能力にもかかわらず、接岸出来る理由は気候が良いので、氷が薄いという点にある。プリンスハラルド海岸はインアクセサブルと呼ばれるだけあり、氷が厚い。
日本の南極観測船がオングル島に確実に接岸できるようになるのは、3代目の南極観測船「しらせ」からである。第3次南極観測隊以降は、大型の軍用ヘリコプター(シコルスキー型)による空輸により、越冬隊を成立させてきた。
インアクセサブルも第2次南極地域観測隊の失敗の原因の1つだと言えるだろう。
■気候・天候について。
南極観測船「宗谷」は第6次南極観測隊まで運用された。このうち昭和基地に最も近くに接岸できたのは、第1次南極観測隊だった。
第1次が20km地点、第2次が110km地点、第3次が140km地点で接岸している。
■樺太犬タロ・ジロなどを置き去りにした原因の感想
第2次南極観測隊が昭和基地に越冬隊を残すことに失敗した原因を1つに絞ることは難しい。
当初から「昭和基地の維持」が目的だったなら、第2次越冬隊は成立していたと思う。越冬隊が成立していれば、樺太犬タロ・ジロら15頭の置き去り問題は起きていない。
しかし、第2次南極観測隊は国際地球観測年(IGY)の本番にあたり、目的は「観測による国際貢献」だった。これは仕方が無い事だと思う。
第2次南極観測隊が越冬隊の成立に失敗したことが本来の姿であり、第1次南極観測隊が第1次越冬隊を残せたことが奇跡だったのではないか。
第1次南極観測隊の年は、幸運にも数10年かに1度の暖かい年だった。だから、昭和基地から20kmの地点まで行くことが出来た。
これはオスの三毛猫タケシが起こした奇跡だったのではないだろうか。オスの三毛猫は生まれる確立が小さく、古来より「航海のお守り」とされている。
(三毛猫タケシについては「三毛猫タケシのあらすじ」をご覧ください。)
第1次南極観測船「宗谷」の往路には、オスの三毛猫タケシが乗っていた。三毛猫タケシは第1次越冬隊とともに昭和基地に残ったので、復路には乗っていない。
第1次南極観測船「宗谷」の復路は順調だったが、往路は氷に閉じ込められ、ソ連の砕氷艦「オビ号」に救出されている。第2次南極観測船「宗谷」では氷に囲まれて身動きが取れなくなり、1ヶ月も流されている。
そう考えると、第1次南極観測隊が昭和基地から20km地点で接岸できたのは、オスの三毛猫タケシが起こした奇跡だったのではないだろうか。
「樺太犬タロ・ジロが生き延びた理由」へ続く。
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