第3次南極観測隊や第3次越冬隊が発足した理由と経緯

実話「南極大陸」のあらすじとネタバレの「第3次南極観測隊が出来た理由と経緯」編です。実話「南極大陸」のあらすじとネタバレは『実話「南極物語」のあらすじとネタバレ』をご覧ください


第2次南極観測隊は第2次越冬隊の成立に失敗し、昭和基地に樺太犬タロ・ジロ・リキなど樺太犬15頭を置き去りにしたが、第3次南極観測隊が発足しなければ、樺太犬タロ・ジロとの奇跡の再開は無かったのである。
南極観測事業は、1957年7月から1958年12月にかけて開催する国際共同観測「国際地球観測年(IGY)」に参加するための国家事業であり、第2次南極観測隊(本観測隊)で終了する予定だった。
しかし、南極地域観測の延長が決まり、題意3次南極観測隊が発足し、樺太犬タロ・ジロとの奇跡の再開が生まれたのである。
今回は、南極地域観測が延長されることとなり、第3次南極観測隊が発足するまでの時系列(年表)と経緯を簡単に紹介する。
■第3次南極観測隊が出来た理由と経緯
アメリカの学者ら中心となり、1957年(昭和32年)6月13日に開催した第4回・南極会議で、1年の延長を提案。南極会議はこれを国際科学会議(ICSU)に上申することを決定する。日本の第1次越冬隊が南極で越冬している最中の出来事である。
1957年(昭和32年)8月18日、上申を受けた国際科学会議(ICSU)は、南極観測特別委員会(SCAR)を設置を決定する。
1957年(昭和32年)12月12日、日本の学術会議南極特別委員会は会議を開き、観測の延長について協議。国際地球観測年(IGY)に参加している観測10部門のうち、地理部門を除いた9部門が1年から2年の観測延長を希望した。
1958年(昭和33年)年2月3日、東京大学の力武常次(りきたけ・つねじ)が第1回・南極観測特別委員会(SCAR)に出席。南極観測特別委員会は各国に5年間の観測延長を勧告する。
1958年2月24日正午、第2次南極観測隊の隊長・永田武は第2次越冬隊の不成立を決定。第2次南極観測隊は昭和基地に樺太犬タロ・ジロ・リキなど15頭を残したまま帰路に就く。
1958年3月24日、ケープタウンで下船した永田武や第1次越冬隊が空路で帰国する。
1958年3月25日、南極地域観測統合推進本部は帰国した隊長・永田武らから報告を受け、今後の対応について協議を開始する。
1958年4月19日、日本学術会議は、南極地域観測の2カ年継続を決議し、政府に南極地域観測事業の2年間の延長を要請する。
1958年(昭和33年)4月28日、第2次南極観測船「宗谷」が東京港日の出桟橋に帰着する。
1958年7月11日、要請を受けた日本政府が南極観測事業の延長を閣議決定し、南極観測事業の2年間延長が正式に決まる。
延長の理由は様々だが、昭和基地の在るオングル島は温暖で環境が良いうえ、オーロラ帯の直下にあり学術的な価値が高かった。さらに、既に昭和基地が完成しているため、少ない予算で観測を継続できるなどの理由があった。
一方、第2次南極観測隊の失敗により、南極観測船「宗谷」の性能について、疑問視する意見も多く、「南極へ行ってみなければ、成功するのか失敗するのかも分からないものに予算は出せない」という反対意見もあった。
しかし、船の新造には2年から3年がかかるため、南極観測船「宗谷」を引き続き使用することとなり、宗谷の性能の問題については第2次南極観測隊の失敗を踏まえ、メーンの輸送手段を空輸することで解決した。
空輸については、「日本は最も抵抗が強い氷のある部分を進もうとしている。しかし、上を飛べば抵抗は少ないし、下へ潜れば抵抗は少ない」という第1次越冬隊の隊長・西堀栄三郎らの考えが参考となった。
1958年7月21日、日本鋼管・浅野ドッグで南極観測船「宗谷」の第3次改造が始まる。
このように第3次南極観測隊が決定。その後も南極観測は延長され、日本は第5次南極観測隊を派遣することになる。
しかし、南極観測船「宗谷」の老朽化などを理由に、1960年(昭和35年)9月2日、第6次南極観測隊をもって南極地域観測の打ち切りを閣議決定し、南極観測隊は正式に打ち切りとなる。
1961年(昭和36年)10月30日、第6次南極観測船「宗谷」が東京港日の出桟橋を出港。第6次南極観測隊による昭和基地の閉鎖作業を行う。第6次越冬隊は残さず、南極観測は打ち切る。
その後、1965年(昭和40年)に第7次南極観測隊を派遣して、南極地域観測を再開。以降は中断することなく、南極地域観測は継続している。
昭和基地で生きていた樺太犬タロ・ジロについては、「樺太犬タロ・ジロはソ連(ロシア)に助けられていた」をご覧ください。

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