ブギウギ-花田鈴子(趣里)のモデルのネタバレ

NHKの朝ドラ「ブギウギ」の花田鈴子(はなだ・すずこ/趣里)のモデルとなる歌手・笠置シヅ子のネタバレです。

ブギウギ-花田鈴子(趣里)のモデルのネタバレ

朝ドラ「ブギウギ」の主人公・花田鈴子(趣里)は、曲「東京ブギウギ」などで「ブギの女王」と呼ばれた歌手・笠置シヅ子です。

モデルの笠置シヅ子(かさぎ・しずこ)は、本名は「亀井静子(かめい・しずこ)」と言い、大正3年(1914年)8月25日に香川県大川郡相生村で生まれた。

相生村は、昭和30年の合併で「引田町」となり、現在は平成15年の合併で「東かがわ市」となっている。

父親は相生村の豪農・三谷陳平で、母親は行儀見習いか何かで三谷家に住み込んでいた女性・谷口鳴尾である。

母・谷口鳴尾は笠置シヅ子が出来ても結婚を許されず、実家に戻って笠置シヅ子を育てていたが、乳の出が悪かったので、大阪から出産のために相生村へ帰省していた亀井ウメにもらい乳を頼んでいた。

母親は色々とあったようで、笠置シヅ子を手放すこととなり、亀井ウメが笠置シヅ子を養女として大阪へと連れて帰った。

笠置シヅ子を養子にした件は亀井ウメの独断だったようで、亀井ウメの夫・亀井音吉は、養子のことを知らず、亀井ウメが2人の子供を抱えて戻ってきたので、双子が生まれたと驚いていたという。

この時に生まれた亀井ウメの実子は、3歳の時に風邪を拗らせて死に、この子の49日が済んだころ、笠置シヅ子は亀井ウメに連れられて、踊りの師匠に弟子入りする。

笠置シヅ子は子供の頃から体が弱かったので、亀井ウメは笠置シヅ子の将来を心配して芸を身につけさそうと考えたようだ。

さて、亀井家は大阪で米屋を営んでいたが、相次いで発生していた米騒動で嫌になり、笠置シヅ子が小学校に入るときに米屋を廃業して、銭湯を始めた。

笠置シヅ子は銭湯で歌ったり、踊ったりしていると、近所の評判になり、頼まれて小屋かけの浪速芝居の芝居に子役として出演したり、色々な舞台に出演して地元で人気となっていたようだ。

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ブギウギ-笠置シヅ子が松竹楽劇部に入部

「ブギウギ」の主人公・花田鈴子(趣里)のモデル笠置シヅ子が松竹楽劇部に入部するのは13歳のことである。

13歳で小学校を卒業した笠置シヅ子は、自信満々で兵庫県の宝塚少女歌劇団を受けたが、子供の頃から体が弱かったので、身体検査で身長が足りずに不合格となってしまう。

その後、笠置シヅ子が家でプラプラしていると、花街の知り合いの芸妓屋から下地っ子(芸妓)に来ないかと誘いがきたので、芸妓になる事に気の進まない笠置シヅ子は、松竹楽劇部に願書を出したと言い、難を逃れた。

もちろん、松竹楽劇部に願書を出したというのは嘘で、松竹楽劇部の事務所へ行くと、生徒は募集しておらず、追い返されたが、芸妓屋に奉公するのが嫌だったので、連日に渡って松竹楽劇部の事務所へ押しかけると、根負けして、部長の松本四郎に会わせてくれた。

笠置シヅ子が宝塚歌劇団に落ちたことを明かして入部を懇願すると、松本四郎は「それだけ喋れれば、体も悪くないだろう」と言い、入部を認めてくれたので、13歳で松竹楽劇部に入部する。

松竹楽劇部は人数も少なく、教育機関もほとんど無かったので、笠置シヅ子は「亀井静子」という本名から「三笠静子」という芸名を付け、松竹楽劇部に入部した年に舞台「日本八景おどり」でデビューした。

笠置シヅ子は先輩の用事などを要領よくこなすので、先輩に気に入られて「豆ちゃん」と呼ばれており、病欠が出たりすると、代役として起用され、同期よりも多く舞台に上がっていたようだ。

ブギウギー養子だと知る

朝ドラ「ブギウギ」の主人公・花田鈴子(趣里)のモデル笠置シヅ子が、自分が養子だと知るのは17歳のことである。

養母・亀井ウメは、笠置シヅ子に養子だと知られてはいけないと思い、笠置シヅ子が小学校に入るころから、香川県に里帰りしても笠置シヅ子の生家・三谷家には近づかないようにしていた。

しかし、笠置シヅ子が17歳とき、避暑で香川県を訪れていたときに親戚に見つかってしまい、笠置シヅ子を1人で三谷家の法事に出席させることになってしまう。

笠置シヅ子の実父・三谷陳平は、笠置シヅ子が生まれて直ぐに死んでおり、この法事は実父・三谷陳平の17回忌だった。

笠置シヅ子は自分が養子だと知らなかったのだが、三谷家の法事に出席し、出席者を小耳に挟み、自分と三谷家に関係があることを知る。

それを知った笠置シヅ子は、親戚を問い詰めて、実母の谷口鳴尾が同じ町内に住んでいる事を知り、実母に会いに行くが、実母は子供を連れていたので、お互いに親子の名乗りはしなかった。

笠置シヅ子は、こうして自分が養子だと知ってしまうが、実子同然として育ててくれた養父母に感謝しており、養子だと知った事を養父母には明かさなかった。

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ブギウギ-桃色争議のネタバレ

昭和17年、「ブギウギ」の花田鈴子(趣里)のモデル笠置シズ子が18歳のときに、大阪の「松竹楽劇部」で、「桃色争議」と呼ばれる労働紛争が起きた。

このころ、映画界では無声映画からトーキー映画へと移り変わっており、映画館で不要になった弁士や楽士の人員整理が問題となっていた。

そのようななか、映画館の人員整理に成功した松竹は、昭和7年6月に東京の「松竹少女歌劇部」の音楽部員の解雇や減給を発表する。

これに対して、監督などに以前から不満を持っていた松竹少女歌劇部の女子生徒が、音楽部員と手を組み、水の江瀧子をリーダーとしてストライキを起こした。

水の江瀧子は、「松竹少女歌劇部」の1期生で、「男装の麗人」として人気を博していたスターである。

しかし、副リーダーの津阪織江が松竹の調略にあって会社側に寝返ってしまったので、水の江瀧子らは松竹から逃げて、湯河原温泉の温泉に籠城した。

一方、大阪でも、東京でのストライキを受ける形で、松竹楽劇部の女生徒が立ち上がり、飛島明子をリーダーとして、待遇改善を求めてストライキを起こし、高野山に籠城していた。

18歳の笠置シズ子も、大阪のストライキに参加している。

松竹は、映画館の人員整理を成功させた経験から、ストライキに対して強気で対応していたが、新聞がストライキを「桃色争議」として報じていたことから、民衆が女生徒らに同情しており、松竹の劇場は客入りが悪くなってきた。

これではライバルの宝塚少女歌劇団が得をするだけなので、松竹は女生徒の改善案の一部を受け入れる形で、ストライキを終わらせた。

勝利を勝ち取った笠置シズ子らは、高野山を降りると、道頓堀の松竹系の劇場を巡り、万歳三唱をしてまわった。

ブギウギ-歌手として歩み始める

朝ドラ「ブギウギ」の花田鈴子(趣里)のモデル笠置シズ子が、歌手として歩み始めるのは20歳のことである。

昭和7年(1932年)に松竹で起きた「桃色争議」の処分により、大阪の松竹楽劇部は飛島明子など大勢のスターを失い、不振に陥った。

このため、松竹楽劇部は昭和9年に「大阪松竹少女歌劇団(OSSK)」へと改称し、拠点を大阪劇場へと移して、立て直しを図った。

さらに、大阪松竹少女歌劇団はコロムビアと提携して、再出発の第1回公演「カイエ・ダムール」の主題歌のレコードを発売した。

このレーコードの吹き込みに抜擢されたのが20歳の笠置シズ子だった。

そして、笠置シズ子が吹き込んだ主題歌というのがA面の「恋のステップ」で、その作曲家は服部ヘンリーだった。

これまでは、服部ヘンリーは服部良一のペンネームとされてきたのですが、服部逸郎のペンネームだった可能性が強くなっています。

さて、女生徒の中で一番声が大きいという理由で歌手に起用された笠置シズ子は、レコードのA面に主題歌「恋のステップ」を吹き込んで、レコードをヒットさせ、歌手としての道を歩み始める。

大阪松竹少女歌劇団は「桃色争議」の処分で大勢のスターを失ってしまったが、残留組の笠置シズ子にとっては活躍の場を得る切っ掛けとなり、残留組の活躍によって、大阪松竹少女歌劇団は人気を盛り返していくのだった。

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ブギウギ-「笠置シズ子」に改名

昭和8年に起きた「桃色争議」によって大勢のスターを失った事を切っ掛けに、残留組の笠置シズ子はスターの仲間入りを果たし、大阪松竹少女歌劇団の幹部となっていた。

そのようななか、昭和10年(1935年)12月に崇仁親王が「三笠宮家」を創設する。

このころ、笠置シヅ子は「三笠静子」という芸名で活動していたのだが、三笠を名乗るのは不敬だとして、松竹からの命令で、「三笠静子」から「笠置シズ子」へと改名した。

ブギウギー笠置シヅ子の上京

朝ドラ「ブギウギ」の主人公・花田鈴子(趣里)のモデル笠置シヅ子が上京して東京の「松竹楽劇団(SGD)」へ移籍するのは昭和13年、24歳のことである。

笠置シヅ子の養父は風呂屋を営んでいたが、笠置シヅ子の弟・亀井八郎が散髪屋を開業したのを機に風呂屋を廃業していた。

公務員の月給が75円だった時代に、笠置シヅ子は会社から給料80円を貰い、養父母から小遣い100円をもらっており、親の道楽で通わせてもらっているようなものだったという。

ところが、昭和13年に散髪屋を営んでいた弟・亀井八郎が兵隊に召集されて丸亀連隊に入隊することになったので、笠置シヅ子が1人で両親の面倒を見なければならなくなった。

一方、東京では、阪急グールの東宝が、東京宝塚劇場を建設して、宝塚少女歌劇を東京へと進出させていた。

また、東宝は有楽町の日本劇場で「日劇ダンシングチーム(NDT)」を立ち上げており、東京で攻勢を掛けていた。

松竹は日劇ダンシングチームに対抗するため、昭和13年に東京の帝国劇場で、男女混合レビューの「松竹楽劇団(SGD)」を立ち上げ、東京・大阪の松竹からスターを結集した。

笠置シヅ子も東京公演が松竹に認められて東京の「松竹楽劇団」の旗揚げにスカウトされた。

笠置シヅ子は、弟・亀井八郎が兵隊に取られて、両親の面倒をみなければならないので、金銭的な事情から、東京の「松竹楽劇団」へ移籍するのだった。

ブギウギー服部良一と出会う

朝ドラ「ブギウギ」の主人公・花田鈴子(趣里)のモデル笠置シヅ子が作曲家の服部良一と出会うのは昭和13年、24歳のことである。

笠置シヅ子は昭和13年に上京して「松竹楽劇団」の旗揚げに参加し、「松竹楽劇団」で副指揮者を務めていた作曲家・服部良一と出会う。

服部良一は、前年の昭和12年に淡谷のり子の「別れのブルース」で大ヒットを飛ばし、新進気鋭の作曲家として注目を集めていた。

笠置シヅ子は、服部良一に認められ、服部良一のジャズ理論を実践するテストケースとして、地声で歌うことを命じられ、声を潰して病院に通いながら練習に励み、「コロムビア」から「ラッパと娘」を発売する。

そして、笠置シヅ子はジャズ歌手として人気を集め、服部良一とのコンビで「スイングの女王」として活躍するのだった。

ブギウギ-シヅ子の東宝移籍事件

昭和13年、朝ドラ「ブギウギ」のモデル・笠置シヅ子が24歳のとき、東宝への移籍事件が発生した。

前年の昭和12年に東宝が松竹の林長二郎(長谷川一夫)を引き抜くという事件が起き、この引き抜き事件を切っ掛けに、芸能界全体で引き抜き合戦が起きており、引き抜き合戦は泥沼化していた。

そのようななか、笠置シズ子も昭和13年に東宝から引き抜きを受けたのである。

笠置シズ子は養母の手術代が必要だったことから、給料の良い東宝への移籍に承諾したのだが、松竹に察知されて軟禁されてしまう。

服部良一が笠置シズ子の移籍問題を解決するために奔走したが、解決はしなかったようで、笠置シズ子は東宝へ移籍できず、松竹歌劇団に残った。

この年、笠置シズ子の養母・亀井ウメが死んだ。

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ブギウギ-松竹から独立するネタバレ

朝ドラ「ブギウギ」のモデル笠置シヅ子が松竹から独立したのは昭和16年、27歳のことである。

昭和13年に起きた東宝移籍問題は泥沼化しており、笠置シズ子は松竹歌劇団に残っていたが、戦時下の影響でジャズが歌いにくくなっていた。

この頃の歌手は直立不動で真顔で歌う事が普通だったが、笠置シヅ子はつけまつげを付けたり、踊りながら歌っていたので、警察に目を付けられ、敵性歌手となってしまう。

ジャズが歌いにくくなった笠置シヅ子は、昭和16年に松竹を辞めて独立し、服部良一らの支援を受けて「笠置シヅ子とその楽団」を発足する。

その直後、松竹歌劇団も戦時下の影響を受けて解散した。

この年の12月に、弟・亀井八郎が戦死し、その2日後に日本が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争へと突入するのだった。

ブギウギ-運命の出会いのネタバレ

朝ドラ「ブギウギ」のモデル笠置シヅ子が運命の出会いをするのは昭和18年、29歳のことだった。

笠置シズ子は、松竹を辞めて「笠置シヅ子とその楽団」を立ち上げて歌手として活動していたが、敵性歌手だったので、戦地慰問には呼ばれず、地方巡業や工場慰問をしていた。

太平洋戦争の影響で敵国の音楽だったジャズへの風当たりや強まっていたが、敵国米英の音楽でなければ問題なかったので、クラシックやタンゴなどの音楽は演奏することができた。

「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子は、戦時中はタンゴを歌っていた。

笠置シヅ子らは、クラシックをジャズにアレンジした音楽を演奏してたようで、アトラクションとして人気があったようだ。

しかし、戦況が悪化するにつれ、ジャズ排除の動きは強くなり、笠置シヅ子は南方をテーマとした「アイレ可愛や」や軍歌を歌うようになったようだ。

そのようななか、昭和18年6月18日、仕事で名古屋を訪れていた笠置シズ子は、親しくしていた辰巳柳太郎の楽屋へ挨拶に行き、「美眉秀麗な貴公子」を目撃して動揺する。

この「美眉秀麗な貴公子」が吉本興業の社長・吉本せいの次男・吉本エイスケ(漢字は吉本頴右)だった。

吉本エイスケは吉本せいの次男だが、吉本せいの長男は既に死んでいたため、実質的には吉本興業の跡取りで、当時は慶應義塾大学の学生だった。

このときは、目撃しただけで言葉は交わしていないが、吉本エイスケが笠置シズ子のファンだったので、後日、吉本エイスケの方から挨拶に来て初めて言葉を交わした。

そして、2人とも関西方面に行く事が分かったので、同じ汽車に乗り、やがては家に行き来するようになった。

笠置シズ子は30歳で、吉本エイスケは21歳。9歳も年の差があったので、最初、笠置シズ子は吉本エイスケを弟のように扱っていたが、やがて恋愛へと発展して、2人は結ばれる。

しかし、仕事の方は厳しさを増す一方で、マネージャーが勝手に「笠置シヅ子とその楽団」を売却したので、笠置シズ子は楽団の解散を余儀なくされた。

その後は、吉本エイスケの配慮で吉本興業のマネージャーを付けてもらい、笠置シズ子は吉本興業のサポートを受けて活動を続けた。

ブギウギのネタバレ-同居と妊娠

昭和20年5月の東京大空襲で笠置シヅ子と吉本エイスケは自宅を失ったので、吉本興業の東京支配人・林弘高が借りていたフランス人の家に移り、同居を始める。

同居と言っても、部屋は違うし、他にも空襲で焼け出された人が住んでいたので、同じ部屋で暮らすわけではないが、2人にとっては幸せなひとときだった。

そして、その年の8月に、笠置シヅ子は富山県を巡業しているときに玉音放送を聞いて敗戦を知るのだった。

戦後、笠置シヅ子と吉本エイスケは結婚に向けて準備を始めるため、フランス人宅を出て、別々に暮らした。

笠置シヅ子は作曲家・服部良一の家に居候するが、服部良一の妻に迷惑がかかっている事に気付き、知り合った女性・荘村正栄の家に移る。

一方、吉本エイスケは結婚に向けて準備をしていたようで、早稲田大学を中退して東京の吉本工業で働いていたのだが、エイスケの母・吉本せいが病気だったこともあり、実家の吉本家から大阪へ戻るように要請が来ていた。

そのようななか、吉本エイスケは吉本家の財産整理をしなければないため、大阪に帰ることになったので、笠置シヅ子は琵琶湖まで吉本エイスケを見送る。

そして、笠置シヅ子は、琵琶湖から東京へと戻ってくると、妊娠が判明するのだった。

ブギウギのモデル笠置シヅ子の結婚と出産

朝ドラ「ブギウギ」のモデル笠置シヅ子は、戦後、吉本エイスケと結婚の約束をしており、結婚したら芸能界を引退することにしていた。

大阪の吉本家から結婚の許しは得ていないが、大阪に戻った吉本エイスケが、頃合いを見計らって母・吉本せいを説得しようと考えていた。

吉本エイスケは吉本興業の跡取りなので、母・吉本せいを説得できなくても、駆け落ちを切り出せば、母・吉本せいは不本意でも結婚を認めるだろうと考えていた。

昭和22年(1947年)2月、笠置シヅ子はお腹が大きくなっていたが、既に舞台「ジャズカルメン」での主演が決まっていたので、医師の勧めもあり、舞台「ジャズカルメン」で主演し、「ジャズカルメン」を最後に芸能界から引退をした。

吉本エイスケは舞台「ジャズカルメン」の公演中に東京へ戻ってくる予定だったので、笠置シヅ子は吉本エイスケとの結婚に向けて新居を購入し、吉本エイスケが戻ってくるのを待っていたが、待てど暮らせど吉本エイスケが戻ってこない。

そのようななか、大阪の吉本興業から、吉本エイスケが体調を崩したという知らせが来る。

吉本エイスケの様態は回復に向かたが、再び様態が悪化して入院することになったので、笠置シヅ子は大阪へ行こうとした。

しかし、臨月だったこともあり、医師から、臨月の笠置シヅ子が行けば、逆に吉本エイスケを不安にさせると止められ、大阪行きを断念した。

一方、大阪でも吉本せいの弟・林正之助が、最期に吉本エイスケに笠置シヅ子と会わせてやろうと思い、船をチャーターして笠置シヅ子を大阪へ運ぼうとしたが、吉本エイスケが身重の笠置シヅ子を案じて断ったので、2人の再会は実現はしなかった。

笠置シヅ子は昭和22年5月18日に、「知らぬ顔をして至って後で恨まれると困るから、お知らせだけしておく」ということで、吉本側から吉本エイスケが危篤状態に陥ったという連絡を受けた。

そして、吉本エイスケは我が子を見る事無く、翌日の5月19日に西宮の吉本家で死去した。

笠置シヅ子は5月20日にマネージャーの山内義富から吉本エイスケが死んだ事を知らされ、5月25日に吉本興業の前田栄一から吉本エイスケの遺言を告げられる。

吉本エイスケは生まれてくる子供のために通帳を残しており、男なら「穎造(えいぞう)」女なら「エイ子」と名付けるように言い残して死んだのだという。

笠置シヅ子は失意のどん底に突き落とされながらも、昭和22年(1947年)6月1日に女子を出産すると、吉本エイスケの遺言に従い、亀井エイ子と名付けたのだった。

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