実話「南極物語」の暴風圏と台風のネタバレ
第1次南極観測隊が南極大陸を目指す実話「南極物語」のあらすじとネタバレの「暴風圏と台風」編です。南極物語のトップページは「南極物語のあらすじとネタバレ」です。
このページは「矢田喜美雄が南極観測隊に参加しない理由のネタバレ」からの続きです。
南極での越冬生活も過酷だが、南極までの道のりも過酷だった。日本を発った南極観測船「宗谷」に、台風の洗礼が待っていた。
1956年(昭和31年)11月15日、南極観測船「宗谷」は台風19号に襲われ、セスナ機「サチ風」を破損してしまう。
シンガポールでセスナ機「サチ風」の修理した南極観測船「宗谷」は、ケープタウンを目指して南下した。
次に南極観測船「宗谷」を襲ったのは灼熱の太陽だった。赤道を通る南極観測船「宗谷」は、猛暑に苦しむ。
樺太犬の部屋には空調機(クーラー)があったが、第1次南極観測隊員の部屋や乗組員の部屋にはクーラーが無かったのである。
樺太犬は寒さには強いが暑さには弱い。日本初の南極探検隊「白瀬探検隊」が樺太犬を連れて南極へ向かうさい、赤道直下の猛暑でほとんどの樺太犬が死んでしまった。
第1次南極観測隊は白瀬探検隊の苦い経験を踏まえ、南極観測船「宗谷」の樺太犬の部屋にだけ、クーラーを設置していた。
1956年は、冷蔵庫も家庭に普及していない時代だった。クーラーは存在したが、高額だった。予算も時間も無い第1次南極観測隊は樺太犬の部屋にクーラーを設置するだけで精一杯だったのである。
やがて、南極観測船「宗谷」は灼熱地獄を抜け、ケープタウンに寄港し、海洋調査に当たっていた随伴船「海鷹丸」と合流する。
そして、南極を目指してケープタウンを発つが、南極へたどり着くためには、「吠える40度、狂う50度、叫ぶ60度(絶叫する60度)」と呼ばれる暴風圏を通過しなくてはならなかった。
南緯40度から南緯70度付近にかけて、低気圧多発地帯(暴風圏)があり、それぞれの南緯によって「吠える40度」「狂う50度」「叫ぶ60度(絶叫する60度)」呼ばれている。
最悪なことに第1次南極観測船(砕氷船)「宗谷」は、一般的な船よりも揺れる構造になっていた。
南極観測船は、氷の上に船体を乗り上げて氷を割るため、底がお椀の様に丸くなっている。だから、ビルジキールと呼ばれる横揺れ防止装備が付いていない。
(氷を割るときに邪魔になるため、第1次南極観測隊はビルジキールを外したが、余りにも揺れが酷いため、第2次南極観測隊は宗谷にビルジキールを再び取り付けている)
だから、南極観測船「宗谷」は、普通の船とは比べものにならないほど激しく揺れた。揺れに揺れた宗谷は、最大で63度も傾いた。
いつ沈没しても不思議ではないどの揺れに苦しめがらも、南極観測船「宗谷」は暴風圏を抜けて、南氷洋に到達した。それは1957年(昭和32年)1月4日のことであった。
1957年(昭和32年)1月7日、南氷洋を進む南極観測船「宗谷」は神秘的な光に包まれた。隊員らがデッキに上がると、太陽が緑色をしていた。神秘的な体験であった。
緑色の太陽の正体は、光の屈折による「グリーンフラッシュ」とういう現象だった。雪山でも「ブロッケン現象」という神秘的な現象が起きる。探検とは常に神秘的な体験の連続なのである。「南極大陸の夏」へ続く。
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コメント欄
ビルジキールを第2次観測以降「宗谷」取り付けましたがキールに切り込みを入れて氷で損傷しても切り込みから切り込み部分のみが損傷させて残りは揺れ止めとして生きて様にした。それでも40度くらいのローリングは当たり前でした。第5次第6次宗谷元乗組員のロシナンテです。
情報ありがとうございます。ビルジキールを取り付けても40度もローリングするんですね。暴風圏では熟練の船員も船酔いしたという程ですから、苦労したのだと思います。