真田幸村の生涯-犬伏の別れのあらすじとネタバレ

HNK大河ドラマ「真田丸」の主人公となる真田幸村(真田信繁)の生涯を真田三代で描く「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」の真田幸村(真田信繁)編「真田幸村(真田信繁)の生涯-犬伏の別れのあらすじとネタバレ」です。

このページは「実話・真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」からの続きです。

真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレの目次は「真田幸村(真田信繁)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■徳川家康の台頭のあらすじとネタバレ
豊臣秀吉は幼い実子・豊臣秀頼のために、五大老・五奉行によって豊臣政権を運営させたほか、前田利家を豊臣秀頼の後見人とし、徳川家康に国政を任せた。

そして、豊臣秀吉は、諸将に何度も何度も豊臣秀頼に忠誠を誓わせて死に、2度に渡る朝鮮出兵も収束へと向かった。

豊臣秀吉の死後、五大老・筆頭の徳川家康は、豊臣秀吉の「国政を代行せよ」という遺言を大義名分として、伏見城で政務を取り仕切った。

対する五奉行・筆頭の石田三成は、豊臣秀頼と後見人・前田利家を大阪城へ入れて大阪城で主導権を握り、合議制で豊臣政権を運営することを要求した。

そのようななか、徳川家康は豊臣秀吉が定めた法度を破り、婚姻政策によって勢力を拡大していった。

これに対して前田利家が徳川家康の罪を糾弾したため、両陣営に武将が終結し、一触即発の状態になったが、前田利家は高齢だったので、徳川家康は前田利家に謝罪して戦を回避した。

■石田三成襲撃事件のあらすじとネタバレ
さて、福島正則・加藤清正・細川忠興・浅野幸長・黒田長政・蜂須賀家政・藤堂高虎ら武断派の武将は、朝鮮出兵の時に石田三成に讒訴され、働きを正当に評価されなかったことから、文治派の石田三成らを激しく恨んでいた。

こうした不満は、前田利家が押さえていたのだが、前田利家が豊臣秀吉の後を追うようにして慶長4年(1599年)閏3月3日に死ぬと、福島正則ら武断派の不満を押さえる者が居なくなった。

すると、福島正則・加藤清正・細川忠興・浅野幸長・黒田長政・蜂須賀家政・藤堂高虎の武断派7将が石田三成を襲撃するが、それを察知した石田三成は伏見城にある石田三成屋敷(治部少丸)へ逃げ込んだ(石田三成襲撃事件)。

福島正則ら武断派7将は石田三成を追って伏見城へと攻め寄せたが、伏見城で政務を取り仕切っていた徳川家康が仲介に乗り出し、朝鮮出兵時の査定の見直しを約束して福島正則ら武断派7将を収めた。

その結果、石田三成は命は助かったが、徳川家康から隠居を勧告され、豊臣政権から失脚し、居城・佐和山城(滋賀県彦根市)へと引きこもることになった(石田三成の隠居)。

(注釈:蜂須賀家政は、「大坂冬の陣」で活躍することになる武将です。)

■徳川家康の加賀征伐のあらすじとネタバレ
その後、徳川家康は各大名に帰国を勧告し、各大名が国元に帰っていく。

前田利家の家督を相続した前田利長は、父・前田利家から「前田利家の死後3年は大阪に残れ」と遺言されていたが、前田利長は家臣の反対を押し切り、慶長4年(1599年)8月に遺言を破って加賀(石川県)へと帰国してしまう。

慶長4年(1599年)9月、徳川家康は、大阪で流れていた「淀君派の浅野長政や大野治長が、加賀藩主・前田利長(前田利家の嫡男)を擁立して徳川家康を討とうとしている」という噂を利用し、大阪城の警護を理由に大阪城を占領して加賀征伐(前田征伐)を発表する。

加賀の前田家は開戦派と非戦派に別れて紛糾したが、前田利長の母・芳春院(前田まつ)が「私は先が短い。母を捨てでも家を守れ」と言って自ら人質になる事を申し出て、加賀征伐を回避した。

また、浅野長政も蟄居処分となって五奉行から失脚し、豊臣秀頼の側近・大野治長も処分を受け、下総国(千葉県北部)へ流された。

(注釈:大野治長は、後に大坂冬の陣で豊臣家を主導することになる人物です。)

■徳川家康の会津征伐のあらすじとネタバレ
そのようななか、会津(福島県)の上杉景勝は慶長5年(1600年)2月、道を整備して武器を揃え始めたほか、直江兼続に命じて神指城の普請を開始した。

一説によると、上杉景勝は石田三成と密約を交わしており、上杉景勝が会津で挙兵し、徳川家康が会津征伐に向かうと、石田三成も挙兵して徳川家康を挟み撃ちにする計画だという。

上杉景勝の動きを察知した越後(新潟県)の大名・堀秀治が「上杉景勝に謀反の疑いあり」と徳川家康に報告し、徳川家康は上杉景勝に上洛を求めたが、上杉景勝は上洛せず、上杉景勝の軍師・直江兼続が「直江状」を送りつけた。

その結果、徳川家康は直江状に激怒し、慶長5年(1600年)5月3日に会津征伐(上杉征伐)を発動し、慶長5年(1600年)6月13日に諸将を率いて大阪城を出て、江戸を目指したのである。

なお、このとき、徳川家康は豊臣家の家老であり、会津征伐(上杉征伐)は豊臣家の命令として発動されているので、真田昌幸は豊臣家の家臣として会津征伐(上杉征伐)に参加することになる。

■真田幸村(真田信繁)の動向のあらすじとネタバレ
豊臣家の死後、真田昌幸と嫡男・真田信幸(真田信之)と次男・真田幸村(真田信繁)の3人は京都・伏見城の屋敷に詰めていたが、徳川家康の大阪城入りに伴って大阪城の屋敷へと移った。

その後、徳川家康が豊臣家の名義で会津征伐(上杉征伐)を発動すると、大阪屋敷に詰めていた真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)と嫡男・真田信幸(真田信之)は、会津征伐(上杉征伐)に参加するため、慶長5年(1600年)6月13日に徳川家康と一緒に大阪城を出て東下した。

その途中で徳川家康と別れ、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は居城・上田城(長野県上田市)へと戻り、嫡男・真田信幸(真田信之)は居城・沼田城(群馬県沼田市)へ戻り、それぞれに戦の支度を整え、会津征伐(上杉征伐)の先鋒・徳川秀忠と合流するため、関東を目指した。

■石田三成の挙兵のあらすじとネタバレ
徳川家康が上杉征伐(会津征伐)のために諸大名を率いて東下すると、大阪から徳川家康に属する勢力は居なくなった。

佐和山城(滋賀県彦根市)に隠居していた石田三成は、その隙を突き、会津征伐(上杉征伐)に参加しようとしていた敦賀城(福井県敦賀市)の城主・大谷吉継を味方に引き入れ、中国の毛利輝元を総大将にして大阪城で挙兵した。

そして、慶長5年(1600年)7月17日、長束正家・増田長盛・前田玄以の奉行3人が「内府ちかひの条々(内府違いの条々)」を発表して徳川家康の罪を糾弾し、西軍は反徳川家康の狼煙を上げたのである。

「内府ちかひの条々」とは、徳川家康が豊臣秀吉の遺命に背いた罪名を書き連ねた文章(徳川家康が犯した罪を13個書いてある)であり、徳川家康に対する事実上の宣戦布告であった。

■徳川家康の動向と小山評定のあらすじとネタバレ
慶長5年(1600年)6月16日に大阪城を出た徳川家康は、慶長5年(1600年)7月2日に江戸に入り、出陣の日を慶長5年(1600年)7月21日に定めた。

慶長5年(1600年)7月19日、江戸に居る徳川家康の元に1通の手紙が届いた。大阪に居る五奉行・増田長盛からの手紙で、手紙には石田三成が挙兵したことが書いてあった。

増田長盛は五奉行の1人で石田三成の西軍に属し、「内府ちかひの条々(内府違いの条々)」に署名した1人だが、この手紙を書いた時点では増田長盛は石田三成に味方していなかった。

このため、徳川家康は石田三成と大谷善継の2人が起こしただけの小規模な反乱だと考え、予定通りに会津征伐(北条征伐)を行う事にした。

慶長5年(1600年)7月21日に江戸を出陣した徳川家康は、同年7月24日に下野国小山(栃木県小山市)へ入った。

しかし、慶長5年(1600年)7月24日、徳川家康の元に「内府ちかひの条々(内府違いの条々)」の写しが届き、徳川家康は愕然とした。

徳川家康は、石田三成の挙兵を小規模な反乱だと思っていたのだが、「内府ちかひの条々(内府違いの条々)」により、五奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以の3人が石田三成に味方しており、大規模な反乱だと判明したのである。

大阪方の情勢を知って動揺した徳川家康は、会津征伐の為に関東に在陣していた諸将を下野国小山(栃木県小山市)に呼び戻し、慶長5年(1600年)7月25日に軍議を開いた。これが世に言う「小山評定(小山会議)」である。

通説では、小山評定で諸将に石田三成が大阪で挙兵したことが伝えられ、徳川家康が諸将に「石田三成に加担したい者は、大阪へ行くがよい」と告げると、豊臣恩顧の代表格である福島正則が率先して徳川家康に味方することを名乗り出たため、諸将も後に続いて徳川家康に味方することを名乗り出て、全員が徳川家康に味方したという。

(注釈:小山で何らかの会議が開かれた事は事実のようでだが、通説となっている小山評定の内容は後世の創作と考えられている。福島正則は徳川家康の命令を受け、一足先に居城・清洲城の警備のために帰ったので、小山評定には参加していないという説もある。)

会津征伐(上杉征伐)は形式的には豊臣家が発令したものだったが、この小山評定で石田三成の征伐が決定し、会津征伐軍(上杉征伐軍)はそのまま、関ヶ原の合戦でいう「東軍」となり、西進を開始したのである。

小山評定の2日後の慶長5年(1600年)7月27日、関東に在陣する東軍の元に、東軍・細川忠興の正室・細川ガラシャ(細川玉)が石田三成の人質になる事を拒否して自害した事が伝わり、東軍の諸将は激しく動揺する。

(注釈:細川ガラシャの生涯は「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

これを知った徳川家康は改めて諸将に「各々は大阪に人質を置いているので、石田三成に味方するのも勝手次第である」と通達すると、細川忠興が真っ先に「私の正室は石田三成の人質にされようとしたため、自害に及んだ。何の面目があって石田三成に属そうか。諸将が大阪へ参られても、私は残り、先手を務める」と言って徳川家康に忠誠を誓ったので、東軍の諸将も改めて徳川家康に忠誠を誓ったという。

徳川家康はそれでも豊臣恩顧武将の動向が心配だった。特に豊臣恩顧の福島正則が大阪方へ寝返る事が心配だった。

そこで、徳川家康は慶長5年(1600年)7月29日、既に西進を開始している黒田長政(黒田官兵衛の嫡男)を下野国小山(栃木県小山市)へ呼び戻し、黒田長政と相談した。

徳川家康が「福島正則は豊臣秀吉に親しかったので、豊臣秀頼を擁立した石田三成に味方するのではないか」と心配すると、黒田長政は「心配は要りません。福島正則は石田三成と仲が悪いので、石田三成に従うとは思えません。もし、石田三成の調略を受け、福島正則が石田三成に味方しようとすれば、私が説得します」と答えた。

また、徳川家康が「福島正則の清洲城は美濃国(岐阜県)に近いので、貴殿の才覚を持って、清洲城を借りて欲しい」と頼むと、黒田長政は「城を明け渡せば、福島正則に異心が無い証明にもなります」と言って引き受けたので、ようやく徳川家康は安心したという。

その後、黒田長政は福島正則を説き伏せ、清洲城(愛知県清須市)を明け渡させたうえ、福島正則が豊臣秀吉から預かっていた兵糧を徳川家康に差し出させた。

こうして、関東に集まっていた会津征伐軍(上杉征伐軍)は、小山評定によって、そのまま徳川家康に属して東軍となったが、小山評定の4日前に会津征伐軍(上杉征伐軍)から西軍に転じる者が居た。

それが、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)である。

■犬伏の別れのあらすじとネタバレ
真田幸村の運命を左右する「犬伏の別れ」は、小山評定が行われた4日前の慶長5年(1600年)7月21日の出来事である。

居城・上田城(長野県上田市)で軍備を整えた真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は、会津征伐(上杉征伐)に参加するために関東を目指し、慶長5年(1600年)7月21日、下野国犬伏(栃木県佐野市犬伏町)に居た。

このとき、嫡男・真田信幸(真田信之)は居城・沼田城(群馬県沼田市)から出陣していたので、30~40キロメートル先の下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)に在陣していた。

ところが、慶長5年(1600年)7月21日の夕刻、五奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以が連署した「内府ちかひの条々(内府違いの条々)」と書状が、父・真田昌幸の元に届いた。

書状には「至急、申し入れる。上杉征伐の儀は、徳川家康の誓詞や豊臣秀吉の掟に背き、豊臣秀頼を見捨てて出陣したものである。我々は相談の結果、徳川家康の違反を別紙(内府ちかひの条々)に示した。この旨を心に留め、豊臣秀吉の恩を忘れていないのであれば、豊臣秀頼に忠節するべきである」と書いてあった。

要するに、届いた書状は「豊臣秀頼のために、徳川家康を討とう」という西軍への参加要請である。

父・真田昌幸は石田三成が挙兵する事を一切知らなかったので、書状を読んで驚き、嫡男・真田信幸(真田信之)と次男・真田幸村の2人を呼び寄せると、薬師堂(栃木県佐野市犬伏新町)へ入り、人払いをして3人だけで密談した。世に言う「犬伏の別れ(犬伏会議)」である。

通説にると、嫡男・真田信幸(真田信之)と次男・真田幸村の2人は刀に手を掛けるほどの激論に及んだという。しかし、それは後世の創作である。史実の犬伏会議は真田親子3人だけの密談だったので、どのような事が話し合われたのかは分からない。

このとき、心配した家臣・河原綱家が様子を見に行くと、父・真田昌幸は「誰も来るなと命じていただろ」と激怒し、家臣・河原綱家に下駄を投げつけた。下駄は家臣・河原綱家の顔に当り、家臣・河原綱家は前歯が欠けたという逸話が残っている。

さて、一般的に犬伏の別れは、「父・真田昌幸は豊臣家と徳川家康のどちらが勝っても真田家を存続できるよう、嫡男・真田信幸(真田信之)を徳川家康に、次男・真田幸村(真田信繁)を豊臣家に付かせた」と言われている。

しかし、実話では、婚姻関係や立場から、嫡男・真田信幸(真田信之)は徳川家康に付き、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は豊臣秀頼に付いたと考えられている。

嫡男・真田信幸(真田信幸)は、小田原征伐の後に上野(群馬県)の沼田を拝領し、半独立の大名となって、関東八州を支配する徳川家康の支配下にあり、次男・真田信政を人質として江戸に置いていた。

(注釈:沼田を拝領した嫡男・真田信幸は、軍役については父・真田昌幸と一括で命じられていたが、沼田の経営については、父・真田昌幸から完全に独立していた。一説によると、嫡男・真田信幸は半独立大名となった時点で別家扱いになり、父・真田昌幸の家督を相続する権利を失うという。)

さらに、嫡男・真田信幸(真田信之)の正室・小松姫は、徳川家康の養女・小松姫(徳川家康の重臣・本多忠勝の娘)であり、嫡男・真田信幸(真田信之)は徳川の縁者だった。

一方、父・真田昌幸は小田原征伐の後、信濃国(長野県)において唯一、本領を安堵された。

そして、徳川家康が関東に転封したので、父・真田昌幸は徳川家康の支配下から外れて豊臣秀吉の支配下に入り、人質として妻子を大阪に置いていた、

さらに、一説によると、真田昌幸は娘(五女)を石田三成の義弟・宇田頼次に嫁がせていたので、石田三成と縁戚関係にあった。

また、次男・真田幸村(真田信繁)は、豊臣秀吉の元で人質生活を送り、豊臣秀吉に気に入られ、従五位下・左衛門佐に叙任されると共に豊臣性を賜っている。

そして、次男・真田幸村(真田信繁)は、豊臣家の重臣・大谷善継の娘・竹林院を正室に迎えており、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は西軍に近い立場であったのである。

こうした立場や婚姻関係から真田親子は犬伏の別れ(犬伏会議)で激論に及んだようだが、最終的には真田昌幸は「親子が別れることにも、家のためには良いだろう」と東西に別れる事を認めたという。

(注釈:「犬伏会議」や「犬伏の別れ」は後世の創作で、真田昌幸は予めこうした時の対応を決めていたという説もある。)

こうして、嫡男・真田信幸(真田信之)は東軍・徳川家康に付き、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は西軍・豊臣秀頼に属することになり、真田親子は敵味方に別れた。世に言う「犬伏の別れ(犬伏会議)」である。

また、真田昌幸の三男・真田昌親(真田昌近)と四男・真田左馬助信勝は「犬伏の別れ(犬伏会議)」には参加していなかったが、嫡男・真田信幸(真田信之)と共に東軍・徳川家康に属したようである。

さて、親子といえど、東西に別れると決めた時点で敵同士である。西軍に付く事を決めた真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は、早々に陣を引き払い、下野国犬伏(栃木県佐野市犬伏町)を発った。

そして、真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は、徳川家康の追手が来るのを恐れ、居城・上田城への最短距離となる中山道は通らず、間道である吾妻街道を通って迂回する形で居城・上田城を目指した。

その道中で、真田昌幸は、嫡男・真田信幸(真田信之)の居城・沼田城へと立ち寄ると、嫡男・真田信幸(真田信之)の正室・小松姫(徳川家康の重臣・本多忠勝の娘)が立ちはだかった。

■沼田城の正室・小松姫のあらすじとネタバレ
犬伏を早々に立ち去った真田昌幸と次男・真田幸村(真田信繁)は、その日の夜に、嫡男・真田信幸の居城・沼田城(群馬県沼田市)へと立ち寄った。

真田昌幸と次男・真田幸村は犬伏から厳戒態勢を敷いて逃げてきたので疲労困憊しており、沼田に着いて安堵し、沼田城に「御用で大阪方面へ行くので、そちらで少し休息したい」と申し入れた。

(注釈:一説によると、父・真田昌幸は、敵になった嫡男・真田信幸の居城・沼田城を乗っ取るために、沼田城へ立ち寄った。)

しかし、沼田城を預かるの正室・小松姫は、父・真田昌幸らの中に夫・真田信之(真田信幸)が居ないことを事を知り、「城の外に休息所を設けるので、そこで休んでください」と言って入城を拒んだ。

(注釈:正室・小松姫は夫・真田信之からの手紙で、犬伏の別れにより、真田親子が敵味方に分かれた事を知っていたという説もある。)

これに怒った真田昌幸の兵が沼田城の城門を打ち破ろうとすると、甲冑を帯びて薙刀を持った正室・小松姫が城門に走り出て、「門破りとは何事ぞ。殿は主の命で出陣しているのに、留守中に押しかけてきて、狼藉に及ぶのは、くせ者である。皆、出向いて討ち取れ。我は女と言えど、真田信之(真田信幸)の妻で、本多忠勝の娘にして徳川家康の娘(養女)なり」と部下に命令を下した。

父・真田昌幸が「孫(真田信幸の子)に面会したいだけだ」と申し入れると、正室・小松姫は「たとえ親子と言えど、敵となったからには入城することはなりません。もし、入場しようものなら、子供を殺して城に火を放って自害する」と入城を拒否し、門を閉ざして厳戒態勢を敷いた。

すると、真田昌幸は沼田城へ入る事を諦めたので、正室・小松姫は侍女を派遣して、真田昌幸らを沼田城の近くの正覚寺に案内して休息させた。

さらに、正装に着替えた小松姫は、孫を連れて正覚寺を訪れ、孫と父・真田昌幸を面会させた。このとき、小松姫は兵に寺の周囲を包囲させていたという。

翌朝、次男・真田幸村(真田信繁)は沼田に火を放とうとしたが、父・真田昌幸は次男・真田幸村(真田信繁)を制して、「流石は本多忠勝の娘である。武士の妻はこうでなくてはいけない。この女性が居る限り、真田家は安泰である」と言い、信州国上田(長野県上田市)を目指したのであったのであった。

一方、沼田城を守った正室・小松姫は、真田家が東軍・西軍に別れれば、裏切る家臣も出るかもしれないと思い、家臣の妻子を沼田城に集めて宴会を開いた。

そして、正室・小松姫は、家臣の妻子が宴会から帰ることを禁じて実質的な人質とし、真田家から裏切り者が出ないようにした。

(注釈:小松姫の生涯のあらすじとネタバレは「小松姫の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■嫡男・真田信幸(真田信之)の犬伏の別れの後
一方、嫡男・真田信幸(真田信之)は、犬伏の別れで父・真田昌幸の敵になると、直ぐに徳川秀忠に報告し、徳川秀忠はそれを徳川家康に報告した。

すると、徳川家康は、嫡男・真田信幸が東軍に属した事を大いに喜び、嫡男・真田信幸(真田信之)に父・真田昌幸の信濃国上田(信州国小県郡)を与える事を約束すると、居城・沼田城(群馬県沼田市)へ戻って会津・越後・信州に備えるように命じたのであった。

真田幸村と真田昌幸-犬伏の別れと第2次上田城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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