山本八重の誕生と家族

NHK大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる山本八重(新島八重)の実話あらすじとネタバレシリーズ「山本八重の誕生と家族」編です。

実話「山本八重の桜」のあらすじの目次は、「実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

■はじめに
当ブログは、長野県のキリスト教の教会がブログで数10ページにわたり採用したキリスト教教会のお墨付きブログです。

■山本八重の誕生
江戸時代末期の1845年12月1日、会津藩(福島県)の城下・米代三ノ丁にある武家屋敷で、山本権八(39歳)と山本佐久(37歳)の間に1人の女の子が生まれた。

この女の子こそ、後にTVやマスコミが「幕末のジャンヌダルク」と呼ぶようになる山本八重である。

山本八重の名前の由来は「八重桜」と言われることもあるが、八重桜は4月ごろに咲くため、「八重桜」説の可能性は低い。

2013年にNHK大河ドラマ「八重の桜」が始まるが、山本八重は晩年、新島邸の庭に咲く梅の花(寒梅)を観るのが好きだったので、強いて言えば、山本八重のイメージは、桜ではなく梅である。

2番目の夫となる新島襄も、新島八重(山本八重)のことを梅に例えて「めずらしと、誰かみざらん、世の中の、春にさきだつ、梅の初花」と詠んでいる。

■山本八重と山本八重子
山本八重は「八重子」と署名することがあるため、「山本八重子」「新島八重子」と表記されることがあるが、山本八重の本名は「山本八重」である。

女子が名前に「子」を付けるのは明治時代の風習(流行)で、山本八重も「八重子」と署名することがあったが、本名は「八重」である。

■山本八重の家族
会津での山本家の始まりは、初代会津藩主・保科正之に招かれて、会津藩の初代・茶番頭を務めた茶道家(遠州流)の山本道珍である。

丹波亀山藩の藩主・松平家の推薦により、山本道珍は会津藩で茶番頭を務めることになったという。

山本八重の父親の山本権八は会津藩の砲術師範(高島流砲術)をしており、「上士黒紐席」という身分の上級藩士だった。

山本権八の家禄は10人扶持と家禄は低いが、会津藩の初代茶番頭・山本道珍の次男の流れをくむ分家であるため、身分は上級藩士であった。

会津藩士は身分によって住む場所が決まっていたため、山本家の自宅の場所から推測して、山本家は100石から150石の家禄をもっらっていたと推測する説もあるが、師範の給料は総じて低かったため、いずれにしても山本権八は高給取りでは無かったようだ。

■高島流砲術
会津藩には15流派の砲術があり、山本権八は西洋式の砲術を専門とする「高島流砲術」の師範であった。山本権八が西洋式砲術の師範であったことが、山本八重に大きな影響を与えている。

ただ、会津藩では野戦を前提とした「長沼流兵法」を採用しており、上級藩士は「鉄砲は下級藩士(足軽)の武器で、上級藩士は槍や刀で戦うもの」と考えていたため、砲術は不人気科目だった。

■山本八重の両親
父親の山本権八は婿養子で、山本は母方の姓である。山本権八は元の名を永岡繁之助と言い、山本佐久と結婚して山本家に婿養子に入った後、山本権八へと改名した。

母の山本佐久は先見の明があり、非常に聡明な女性だった。母の山本佐久は、武田信玄の軍師・山本勘助の遠縁とされているが、この説は山本家に箔を付けるための創作の可能性が大きい。

■新島八重の兄弟
山本八重と18歳離れた長男の山本覚馬は、4歳で唐詩選の五言絶句を暗唱したという秀才で、山本八重が生まれたときには既に会津藩校「日新館」に通い、槍・剣・弓などで頭角を現していた。

長女は山本覚馬と同じくらいの年頃で、既に窪田家に嫁いでおり、山本八重が生まれたときには、山本家には居なかった。

次男と次女の2人は生まれて直ぐに死んでいる。そして、3女の山本八重が生まれた3年後に、3男の山本三郎が生まれる。これが山本八重の家族である。

山本八重は子供の頃から男勝りで、石投げや駆けっこでは、男の子にも負けなかった。13歳の時には米4斗俵(60kg)を肩まで4回も上げ下げできたほどの怪力だった。

砲術師範だった山本権八は自宅で私塾を開いていた関係で、山本八重は山本権八や山本覚馬の影響を受け、幼い頃から縫い物よりも砲術に興味を示して育った。

山本八重は近所の高木家で一通り縫い物を教わったが、大人しく座って針仕事をするのは性に合わないらしく、暇を見つけては長男・山本覚馬から鉄砲の撃ち方を教わっていた。

山本八重は砲術の上達が早く、24歳の時には他人に教えるほどにまで成長しており、父の山本権八が「この子が男のだったら」と悔やんだ程だった。

山本八重と日新館と什の掟のあらすじ」へ続く。

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