山本八重と日新館と什の掟
新島八重(山本八重)の生涯を描く実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「山本八重と日新館と什の掟」編です。
このページは「山本八重の誕生と家族」からの続きです。実話「新島八重の桜」のあらすじの目次は、『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■日新館と什の掟
会津藩は非常に教育熱心な藩で、東日本一の規模を誇る藩校「日新館」を開校していた。
会津藩士の子供は10歳なると「日新館」に入学することができ、優秀な者は会津藩の代表として江戸へ遊学に出ることが出来た。
(注釈:日新館に入学するのは中級藩士以上の身分の藩士で、下級藩士は日新館に入学できない。)
このため、会津藩士の子供は競うように勉強し、優秀な子供が多かった。兄の山本覚馬も日新館で頭角を現し、江戸遊学へ出ている。
会津藩士の子供は、住んでいる地区ごとに「什(じゅう)」という10人程度のグループを形成し、階級に関係なく、年長者がリーダー「什長」を務めた。
そして、日新館に入学した10歳以上の子供は「生徒の什」を行い、日新館に入学する前の6歳から9歳の子供は「遊びの什」を行った。
什には7つの決まりから成り立っていた。これが「ならぬことはならぬものです」で有名な「什の掟」である。
■什の掟
1・年長者の言うことに背いてはなりませぬ
2・年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
3・虚言をいふ事はなりませぬ
4・卑怯な振舞をしてはなりませぬ
5・弱い者をいぢめてはなりませぬ
6・戸外で物を食べてはなりませぬ
7・戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
■什の掟の制裁
「什の掟」を破った者には罰があった。「遊びの什」の場合、罪が軽ければ、「無念でありました」と謝罪する程度だが、罪が重ければ、同じ什の仲間から制裁を受ける。「派切る」と言って一定期間、交際を絶たれる制裁もある厳しい決まりだった。
(注釈:什の掟についての詳細は「実話-会津藩「什の掟」のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)
■山本八重と什の掟
会津藩は教育に熱心な藩だったが、当時は女子に学問を教えるという概念は無く、日新館に入学できるのは男子だけで、女子に対する教育制度はなかった。
当然、会津藩士の子供が作るグループ「什(じゅう)」に入れるのも男子のみで、女子は入れなかった。
会津藩士の女子は、家族から読み書きを習い、裁縫や機織りを習うのが一般的だった。裕福な家庭では、女子でも習字などの家庭教師を雇うことがあった。
山本八重は女なので什に入ることは無かったが、父・山本権八や兄・山本覚馬から「什の掟」や「日新館童子訓」を学んで育った。
山本八重は7歳の時には「什の掟」や「日新館童子訓」を全て暗記しており、老齢になっても暗唱できた。特に、日新館童子訓は山本八重に大きな影響を与えている。
■山本八重と武術
会津藩士の女子は学問を学ぶことは無かったが、いざという時に自殺できるように切腹の作法を学んだり、戦になったと時ために武術(薙刀)を学んだりしていた。
山本八重も他の女子と同様に薙刀を学んだが、砲術師範に生まれて鉄砲についての知識を得ていたため、これからは鉄砲の時代で、薙刀では通用しなくなることを悟っていた。
実話「新島八重の桜」の会津編「山本八重と幼なじみの日向ユキ」へ続く。