山本覚馬と林権助のあらすじ
山本八重の実話をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「山本覚馬と林権助のあらすじ」です。
このページは「山本八重と幼なじみの日向ユキ」からの続きです。実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』です。
■山本覚馬の江戸遊学
5歳の時に唐詩選の五言絶句を暗唱できた長男・山本覚馬は、9歳で会津藩の学校「日新館」に入学すると、険術や槍術で頭角を表し、24歳で弓・馬・槍・刀の師範を取得している。
1850年、才能が認められた山本覚馬は、22歳にして江戸へ遊学に出る。そして、山本覚馬は江戸で勝海舟らと共に佐久間象山に学び、大きな影響を受ける。
1853年7月8日、浦賀にペリー提督が黒船で来航すると、江戸は大混乱となる。会津藩は江戸湾の警備を強化するため、江戸へ人員を送った。
江戸遊学から帰国していた山本覚馬(25歳)は、江戸勤務を命じられた大砲奉行の林権助に認められ、林権助に従って江戸へ出る。山本覚馬にとって2度目の江戸である。
会津藩は幕府の命令により、外国人のために、港で水上訓練を披露する。見学していた外国人は、よく訓練された会津藩の兵に驚いたという。
(注釈:会津には海が無いが、会津藩校「日新館」には水上訓練用のプールが設置されており、会津藩では水上訓練も行われてた。)
このとき、江戸で西洋の軍隊を目の当たりにした山本覚馬(25歳)は、医師・大木忠益(後の坪井為春)の元で蘭学を学んだ。
1854年、吉田松陰が密出国を企てるが、アメリカ船「ポーハタン号」に密航を拒否され、伝馬町の牢屋敷に投獄される。
吉田松陰の密航事件に連座して、山本覚馬の師にあたる佐久間象山も投獄されてしまう。
■林権助に助けられた山本覚馬
1856年、江戸で様々なことを学んだ山本覚馬(28歳)が会津に戻り、藩校「日新館」の教授に就任。そして、山本覚馬は日新館に蘭学所を開いた。
蘭学所の教師は、山本覚馬と南摩綱紀の2人だけだったが、後に川崎尚之助と古川春英の2人が加わり、蘭学所は充実していく。
その一方で、山本覚馬は会津藩に西洋式銃を導入した主力部隊の編成を訴える。しかし、長沼流兵法という古い軍隊制度を採用していた会津藩では、山本覚馬の意見は受け入れられなかった。
鉄砲は下級の足軽が持つ武器であり、上級兵は刀や槍で戦う。これが会津藩士の美徳だった。
山本覚馬は、実際に西洋銃の威力を示し、刀や槍では西洋銃に通用しないことを見せつけたうえで、「西洋銃に勝てるという方がいらっしゃるのなら、名乗りを上げてください。どなたでもお相手いたします」と勝負を求めた。
西洋銃の威力は一目瞭然であったが、会津藩の家老は世襲制で腐敗しており、西洋銃の導入を認めなかった。
そのうえ、山本覚馬は「上司に無礼な口を利いた」との理由で、禁足(謹慎処分)となってしまう。
山本覚馬は禁足処分中も西洋式銃の導入を主張して、会津藩士を説得して廻り、禁足から1年後、大砲奉行の林権助の助力により、山本覚馬の禁足が解ける。
そして、林権助の協力により、会津藩に西洋式銃の導入も認められ、山本覚馬は軍事取調役・大砲頭取に抜擢されるのであった。
実話「新島八重の桜」の京都編「樋口うらと川崎正之助のあらすじとネタバレ」へ続く。
コメント欄
いつもついていない福島県 時世先取りは早いのですが、自分達の墓は京都黒谷西雲院の会津墓地にあり、父母の法要は、この寺で行ィます。覚馬は鳥羽伏見の戦いで負傷、
早乙女貢先生の著書に詳しくでています、先日もお寺で八重さんの写真を拝見しました
お母さんと京都に来られたのが、人生の岐路 兄覚馬は京都の行政深くかかわり、寺の多い町に伴天連の学校を作る、この作業は大変苦労された事でしょう。