樋口うらと川崎正之助のあらすじとネタバレ
山本八重の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「川崎正之助と樋口うらのあらすじとネタバレ」編です。
このページは「山本覚馬と林権助のあらすじ」からの続きです。実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■山本覚馬が樋口うらと結婚
1857年、兄の山本覚馬が「樋口うら」と結婚する。山本八重からみれば、樋口うら(山本うら)は兄嫁となる人物である。
山本覚馬が樋口うらと結婚した経緯については何も分からない。結婚相手の樋口うらの経歴や詳細についても分からない。
■川崎正之助のあらすじとネタバレ
1857年、山本家に「樋口うら」が嫁入りしたのと同じころ、1人の青年が会津藩の藩校「日新館」を訪れた。
青年の名前は川崎正之助(かわさき・しょうのすけ)という。この川崎正之助が、後の「川崎尚之助」であり、後に山本八重の夫となる人物である。
川崎正之助は出石藩(兵庫県)の医師の子として生まれたとされる。父親は藩医とされていたが、町医者という説が有力となっている。ただ、父親の詳細については分らず、医師であることすらも疑わしい。
川崎正之助については不明な点が多い。川崎正之助は、江戸に川崎正之助は江戸に出て舎密(せいみじゅつ=理化学)や蘭学を学んでいるが、川崎正之助が江戸に出る間での経緯は不明である。
川崎正之助は江戸で蘭学者・杉田成卿(すぎたせいけい)らに学んだ後、1856年には医師・大木忠益(後の坪井為春)の塾に在席し、蘭学を学んだ。
このとき、山本覚馬も2度目の江戸遊学で大木忠益の塾に在席しており、2人は大木忠益の塾で知り合った。川崎正之助は非常に優秀な男だったため、山本覚馬は川崎正之助の才能に惚れ込んだという。
その後、山本覚馬は2度目の江戸遊学を終えて会津に戻ると、1856年に会津藩校「日新館」で蘭学所を開いて教授に就任した。
そして、山本覚馬が「樋口うら」と結婚した1857年頃に、川崎正之助が会津へやってきた。
川崎正之助は、山本覚馬の推薦により、蘭学所の教授として会津に招かれたが、川崎正之助は「不肖人の師たるに足らず」として給料の受け取りを辞退し、山本覚馬の自宅に寄宿しながら蘭学所の教授を務めた。
こうして、川崎正之助は蘭学所で働くようになるのだが、会津藩の改革の一環として、蘭学所の砲術科が軍部に接収されて砲術部門となる。この改革に伴って川崎正之助も軍事奉行の指揮下に移ったとされている。
■川崎正之助から川崎尚之助へ
川崎正之助は会津に入って以降、初代会津藩主・保科正之と同じ「正」の字を使用することを避け、代わりに「尚」の字を当て、名前を「川崎尚之助」と改めた。
以降、川崎正之助は「川崎尚之助」を名乗るようになるのだが、川崎正之助が「川崎尚之助」と名前を改めた正確な時期は分らない。
■川崎正之助は会津藩士だった
これまでは、「川崎正之助は会津藩士ではなかったため、若松城落城野前に城を出た」とされていた。
しかし、会津藩士の名簿「御近習分限帖」に、川崎正之助(河崎尚之助)の名前が記録されており、川崎正之助は大砲方頭取13人扶持の会津藩士だったことが判明している。
川崎正之助は、若松城籠城時には会津藩士だったことになるが、川崎正之助が会津藩士登用された時期は分らない。
藩士の娘が結婚と結婚するには藩の許可必要で、「武士」の身分が必要なため、川崎正之助は山本八重と結婚するまでに「武士」の身分となっていたことになる。
そうすると、川崎正之助は山本八重と結婚と前後して正式な会津藩士となり、会津藩士となったことを機に「川崎尚之助」と名前を改めた可能性が大きい。
実話「新島八重の桜」の京都編「松平容保が京都守護職に就任した理由のネタバレ」へ続く。