山本覚馬建白(管見)

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「山本覚馬建白(管見)-時勢の儀に付き拙見申し上げ候」編です。

このページは「山本三郎と林権助が死亡、神保修理の切腹」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■山本覚馬の幽閉
1868年1月、薩摩藩などが「王政復古の大号令」で新政府を宣言すると、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜や会津藩主の松平容保は、二条城(京都)から大阪城へ退いていた。

会津藩士も藩主・松平容保と供に大阪へ下ったが、ほとんど失明していた山本覚馬は京都に残り、静養していた。

1868年1月27日、江戸で起きた「薩摩藩邸の焼討事件」が大阪に伝わると、会津藩から「薩摩を討つべし」との声が挙り、大阪城に居た徳川慶喜は討薩を決め、旧幕府軍・会津藩・桑名藩が京都へ兵を進めた。

京都に刃を向けてはいけない。会津藩の進軍を知った山本覚馬は、会津藩が逆賊の汚名を着せられることを憂いて、進軍の中止を訴えるために大阪へ向かう。しかし、街道は薩摩兵により封鎖されていた。

山本覚馬は京都へ引き返して朝廷に敵意が無いことを訴えようとしたが、途中で薩摩兵に捕まってしまう。

この一件は、会津の山本家には「山本覚馬は、京都の蹴上から大津ヘ向かう途中に薩摩軍に捕らえられ、四条河原で処刑された」と伝えられた。

山本家にとっては、弟・山本三郎の死に続く訃報だった。山本覚馬の訃報に、山本八重や妻・樋口うらは泣き崩れたが、母親の山本佐久は山本覚馬の訃報を信じずに凜としていた。

会津の山本家には山本覚馬が処刑されたと伝わったが、本当は、山本覚馬は京都にある薩摩藩邸に幽閉されていた。

山本覚馬を捕らえたのが薩摩藩だったことは、不幸中の幸いであった。山本覚馬が長州藩に捕まっていれば、命は無かったかもしれない。

会津藩は「八月十八日の政変」で、京都から尊王攘夷派の長州藩を追い出しており、長州藩は会津藩を恨んでいた。

しかし、薩摩藩は「八月十八日の政変」で会津藩と手を組んでいた。このとき、山本覚馬は聡明だったため、薩摩藩にも名前が知れ渡り、薩摩藩には山本覚馬の才能を認める者が多かった。

捕らえられた山本覚馬は斬首されそうになったが、山本覚馬の才能を認める薩摩藩士に助けられ、九死に一生を得た。

そして、山本覚馬は囚われの身となりながらも、山本覚馬の才能を認める薩摩藩士のおかげで優遇された。

■山本覚馬建白(管見)-時勢の儀に付き拙見申し上げ候
1868年6月、ほとんど失明していた山本覚馬は、同じように幽閉されていた野沢鶏一に口述筆記を頼み、意見書「山本覚馬建白(管見)」を書き上げ、新政府(薩摩藩)に提出した。野沢鶏一は、山本覚馬が京都で開いた蘭学所の教え子である。

山本覚馬建白には、「政権」「議事院」「建国術」「女学」など23項目にわたり、「三権分立」「2議院制」「女性の教育」「学校建設」「西暦の採用」などの近代国家の方針が述べられていた。

この意見書「山本覚馬建白」は、俗に「管見(かんけん)」と呼ばれている。管見とは、自分の意見をへりくだる時に使用する言葉である。

山本覚馬の意見書「山本覚馬建白(管見)」を読んだ薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀(こまつ・たてわき)らは、山本覚馬の才能を認め、幽閉中の山本覚馬に酒などを差し入れて、さらに優遇した。

山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」は、山本覚馬自身にも、明治政府にも大きな影響を与えることになる。

その後、山本覚馬が京都府大参事(副知事に相当)に認められて京都府顧問になるのも、幽閉中に提出した「山本覚馬建白(管見)」が評価されたからだった。

ちなみに、山本覚馬が幽閉されている薩摩藩邸は、後に山本覚馬が購入し、山本八重の夫となる新島襄が設立した同志社英学校の建設地となっている(現在の同志社大学今出川校)。

一方、山本覚間の世話をしていた少女・小田時栄は、薩摩藩の許可を得て、幽閉中も山本覚馬の世話を続けた。

山本覚馬は幽閉中も優遇されていたものの、1年にわたる幽閉生活中に完全に失明したうえ、脊髄を痛めて足を悪くしてしまうのであった。

実話「新島八重の桜」の京都編「朝敵(逆賊)の会津藩を討伐せよ」へ続く。

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