世良修蔵の暗殺のあらすじ

山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「世良修蔵の暗殺のあらすじ」編です。

このページは「奥羽鎮撫総督府と世良修蔵のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。

■会津藩の軍制改革
仙台藩の進軍を受けた会津藩は、仙台藩に降伏の使者を送り、仙台藩に謝罪嘆願の斡旋を依頼する一方で、軍制改革を行い、新政府軍と戦う準備も始めていた。

1868年4月、会津藩はフランス式の軍隊編成を取り入れた軍制改革を行う。会津藩の悲劇として有名な白虎隊(びゃっこたい)は、この軍制改革で誕生する。

1868年5月2日、新政府軍から朝敵とされた会津藩と庄内藩の2藩が同盟を結ぶ(会庄同盟)。

1868年5月3日、新政府軍は無血開城により、江戸城を落とす(無血開城)。

■会津嘆願書-仙台藩の圧力
1868年5月(慶応4年4月29)、会津藩・仙台藩・米沢藩の家老が、宮城県の関宿に集まり、署名嘆願について協議する(関宿会議)。

1868年6月1日(慶応4年閏4月11日)、かねてより会津藩の嘆願を話し合っていた仙台藩など東北14藩が白石城に集まり、会津嘆願書の提出を決定し、「奥羽列藩同盟」を結成する(白石会議)。

1868年6月2日、仙台藩は、奥羽鎮撫総督府の九条道孝に、3通の恩赦嘆願書を提出する。

このとき、奥羽鎮撫総督府は仙台藩に本拠を置いており、下参謀の世良修蔵と大山格之助の他藩へ出向いていた。

仙台藩は世良修蔵らの留守を狙い、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝に恩赦嘆願書を受け取らせたのである。仙台藩は、九条道孝に恩赦嘆願書を受け取らせるめ、8時間に及ぶ談判を行ったという。

会津藩は「会津藩は徳川家の処分を見届けるまでは、謝罪はできない」という宣戦布告とも受け取れる返事を送っており、総督・九条道孝は恩赦嘆願書の受け取りを拒んだ。

しかし、奥羽鎮撫総督府の兵力はわずかで、仙台藩に攻められれば一溜まりも無いため、最終的には仙台藩の圧力に屈して嘆願書を受け取った。

奥羽鎮撫総督府に戻った世良修蔵は、総督・九条道孝が受け取った恩赦嘆願書を見て臍をかんだ。まさか、留守を狙われるとは。

そこで、世良修蔵は仙台藩が提出した赦嘆願書を京都へ持ち帰り、奥羽諸藩が新政府に対して反抗的であることを説明し、大軍を率いて会津藩を攻めることにした。

■世良修蔵の暗殺
1868年6月10日、仙台藩士・姉歯武之進(あねは・たけのしん)らが、福島藩の城下町にある宿屋「金沢屋」に宿泊している奥羽鎮撫総督府の参謀・世良修蔵を襲撃し、斬首する(金沢屋の世良修蔵暗殺事件)。

奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝は会津藩に謝罪嘆願の勧告を行っており好戦的ではなかったが、世良修蔵は会津藩の武力制圧を強行しようとしていた。

このため、仙台藩は「会津藩の謝罪嘆願が受け入れられないのは、世良修蔵が邪魔をしているからではないか」と疑っていた。

このようななか、福島藩にある宿屋「金沢屋」に宿泊していた世良修蔵は、奥羽鎮撫総督府の下参謀・大山格之助に宛てた密書をしたためた。

世良修蔵は福島藩士・鈴木六太郎に密書を渡し、下参謀・大山格之助へ密書を届けるように命じたが、福島藩士・鈴木六太郎は密書を福島藩に提出。密書の内容に驚いた福島藩は、密書を仙台藩に届けたのである。

世良修蔵の手紙には「奥羽(東北)を皆、敵と見て」「京都へ戻り、援軍を率いて奥羽を攻める」と書かれており、東北全体が敵視されている事を知った仙台藩士・姉歯武之進は世良修蔵を暗殺したのであった。

■奥羽越列藩同盟の成立
確かに会津討伐は大義名分を欠いた戦争だった。しかし、会津藩に同情はしても、所詮は他人事である。東北諸藩の中にも勤王派も居た。

東北諸藩が最も恐れていたのは、戦争に巻き込まれることだった。江戸幕府は「外様の兵で外様を討つ」という方針をとっていた。新政府もこれと同じことをする可能性があった。つまり、東北諸藩が恐れたのは「東北の兵で会津を討つ」ということであった。

謝罪嘆願が認められれば戦争は避けられるため、東北諸藩は会津嘆願運動に参加していた。

しかし、仙台藩士の姉歯武之進が奥羽鎮撫総督府の下参謀・世良修蔵を暗殺したため、事態が急変する。

世良修蔵を暗殺して後へ引けなくなった仙台藩が会津救済運動を軍事同盟にすり替えると、圧倒的な軍事力を背景に、恭順派の三春藩などを脅し、軍事同盟への参加を迫ったのである。

こうして、東北諸藩は仙台藩などの圧力に屈し、会津藩・仙台藩・米沢藩を中心とする奥羽列藩同盟が成立した。

1868年6月21日、越後の長岡藩の藩士・河井継之助は、新政府軍に越後への侵攻中止を訴えたが、新政府軍は取り合わず、河井継之助の談判が決裂する(小千谷談判)。

1868年6月22日、長岡藩など北越の5藩が奥羽列藩同盟に加わり、会津藩と庄内藩を除く東北31藩による奥羽越列藩同盟が成立する。

なお、会津藩と庄内藩は会庄同盟を結んでおり、この2藩は奥羽越列藩同盟には加わっていない。

こうして、奥羽越列藩同盟が成立すると会津藩は若松城に奥羽列藩同盟の盟主・輪王寺宮を迎え、東北に一大勢力が誕生したのである。

しかし、盟主・輪王寺宮は戦が近づいている事を知ると、若松城を立ち去った。盟主・輪王寺宮が若松城に居たのは、わずか1ヶ月だった。

実話「新島八重の桜」の会津編「会津藩の軍制改革-長沼流兵法の終演-あらすじとネタバレ」へ続く。

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