会津藩の軍制改革-長沼流兵法の終焉
山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「会津藩の軍制改革-長沼流兵法の終焉」編です。
このページは「世良修蔵の暗殺のあらすじ」からの続きです。
実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■会津藩の軍制改革
1868年4月2日(慶応4年3月10日)、「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍に惨敗して朝敵となった会津藩は、仙台藩に謝罪談判の仲介を頼む一方で、軍制改革を断行した。
会津藩は野戦を想定した長沼流兵法を採用していたが、今回の軍事改革でフランス式の軍隊制度を取り入れ、年齢別に軍隊を編成する。
玄武隊…50歳以上の藩士
青龍隊…36歳から49歳までの藩士
朱雀隊…18歳から35歳まで藩士
白虎隊…16歳から17歳まで藩士
幼少隊…15歳未満の藩士
このうち、16歳と17歳で編成された隊が会津藩の悲劇として有名な「白虎隊(びゃっこたい)」である。
白虎隊や幼少隊は予備隊という位置付けで、戦争に出る予定は無い部隊だった。白虎隊は当初、15歳からの兵で編成される予定だったが、15歳では重い鉄砲を扱うのは難しいため、16歳からの編成となった。
会津藩は身分意識・階級意識が非常に強いため、フランス式の軍隊編成を取り入れても身分意識が残り、年齢別に分類された部隊は、身分階級によって、さらに「士中」「寄合」「足軽」などに分類された。
一般的には白虎隊といえば、飯盛山で自害した白虎隊19名を指すが、飯盛山で自害した白虎隊は身分別に分類された「白虎隊の士中二番隊」であり、白虎隊は全体で343名である。
また、会津藩は、年齢別に編成した朱雀隊や白虎隊などの正規軍の他にも、町民や農民から兵を募り、職業別に分類して、「正奇隊」「奇勝隊」「修験隊」などの非正規軍(義勇軍)を組織した。
これらの他にも、会津藩には「別選組」「敢死隊」「遊軍隊」なども存在ずる。山本八重の夫・川崎尚之助は敢死隊の隊長を務めている。
一方、京都守護職の辞任に反対し続けて免職となった家老の西郷頼母(さいごう・たのも)は、会津藩存亡の危機を目の当たりにして家老に復帰している。
皮肉なことに「鳥羽・伏見の戦い」の敗戦により、山本覚馬が訴えていた洋式銃を主体とした部隊の編成が、会津藩に実現した。ようやく、会津藩が山本覚馬に追いついてきたのである。
しかし、会津藩士には「鉄砲は下級武士の武器で、上級藩士は刀や槍で戦う」という考えが根強いうえ、「武士が腹ばいになれるか」と激怒して匍匐(ほふく)訓練を拒否する藩士も多く、会津藩の軍制改革は思うようには進まなかった。
会津藩士の中には、無礼を働く教官をいつでも切れるよう、刀を携帯して訓練に参加していた者も居る有様だった。
このため、会津藩の正規軍は弱かった。洋式銃が主力となってからは、会津藩の正規軍よりも、鉄砲に対する拘りの無い少年兵や募集兵の方が強かった。
これは他藩も同じで、江戸幕府軍で最強とも言われる伝習隊(でんしゅうたい)も、武士から編成した部隊では無く、博徒などを募集して作った部隊なのである。
実話「山本八重の桜」の会津編「川崎尚之助と内藤新一郎と小森沢長政のあらすじとネタバレ」へ続く。
コメント欄
「終焉」ですよね。
誤字のご指摘ありがとうございます。「終演」を「終焉」に訂正しました。