母成峠の戦い-伝習隊と新選組
山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ『実話「山本八重-母成峠の戦い」』編です。
このページは「山本八重と白虎隊の伊東悌次郎のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■会津戦争「母成峠の戦い」
白河城を奪われた会津藩は、国境で新政府軍を迎え撃つ作戦をとっていた。
しかし、二本松藩が落ちたため、会津藩は守備範囲を広げなければならなくなり、兵の分散を余儀なくされ、主要街道を中心い防備を固めていた。
一方、新政府軍は「根っ子(会津藩)を刈って、枝葉(奥羽越列藩同盟)を枯らす」作戦をとり、会津藩への侵攻を決定したが、侵攻ルートで意見が割れていた。
参謀の伊地知正治は母成峠から会津藩へ侵攻するルートを主張したが、母成峠から侵攻すれば、難所の「十六橋」を通過しなくてはいけないため、参謀の板垣退助は御霊櫃峠ルートを主張していた。
両参謀が主張を譲らないため、新政府軍は2手に別れて会津藩へ侵攻することになったが、長州藩の桃山発蔵が「兵力を分散すれば不利になる」と板垣退助を説得し、新政府軍は伊地知正治が主張する母成峠ルートから侵攻することになった。
1868年10月6日、新政府軍は、会津藩の主力部隊が守る主街道に囮部隊800人を差し向け、陽動作戦で会津藩の主力部隊を引きつけると、脇街道から母成峠を目指した。
母成峠を守る会津側の軍勢は、江戸幕府軍の大鳥圭介が率いる伝習隊(でんしゅうたい)や土方歳三が率いる新撰組を中心とした800人。これに対して新政府軍3000人が母成峠へ押し寄せた(母成峠の戦い)。
伝習隊とは、江戸幕府が百姓や博徒などを金で集め、ランス式の軍事訓練を受けた傭兵部隊で、「鳥羽・伏見の戦い」でも新政府軍を相手に善戦した精鋭部隊だった。
伝習隊は江戸幕府の軍隊であったが、江戸幕府が新政府に帰順した後、江戸から脱走し、新撰組などと合流して、各地で転戦しており、会津藩の援軍に駆け付けていた。
一方、新撰組は「鳥羽・伏見の戦い」の後、江戸へ戻り、江戸幕府軍の甲陽鎮撫隊として新政府軍と戦っていた。
このとき、新撰組の局長・近藤勇が新政府軍に包囲され、「大久保大和」と名乗って投降(その後、処刑されている)したため、その後は土方歳三が新撰組を率いて各地を転戦した。
新撰組は江戸城無血開城の後も各地を転戦した後、会津側に合流して「白河口の戦い」に参加。その後、伝習隊と合流していた。
■母成峠の戦い
さて、伝習隊や新撰組などの会津軍800人が守る母成峠に、新政府軍3000人が押し寄せた。
多勢に無勢だったが、母成峠は天然の要害だったうえ、大鳥圭介は陣を3段に築いて大砲を配置しており、新政府軍も簡単には落とせなかった。
攻めあぐねた新政府軍は敵陣に大砲を集中砲火。さらに、会津藩に恨みを持つ地元農民が新政府軍に味方したため、新政府軍は地元の人間しか知らない小道を通って敵陣の裏側に出て、背後から会津軍を攻めた。
意表を突かれた会津軍は総崩れとなり、新政府軍は一気に会津領内に雪崩れ込んだのであった。
実話「山本八重の桜」の会津編『実話「十六橋の戦い」のあらすじとネタバレ』へ続く。