実話「十六橋の戦い」
山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「実話『十六橋の戦い』」編です。
このページは「母成峠の戦い-伝習隊と新選組」からの続きです。
実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■燃えていた猪苗代城
新政府軍は母成峠を突破して会津領内に雪崩れ込む。新政府軍は猪苗代城からの反撃を覚悟していたが、新政府軍が猪苗代城に到達したとき、意外なことに猪苗代城は燃えていた。
防衛拠点となるはずの猪苗代城は、兵士が母成峠などの国境の警備へ出向いており、もぬけの殻になっていた。
このため、猪苗代城の城代・高橋権太輔は母成峠が突破されたことを知ると、猪苗代城に火を放ち、若松城へと退していたのである。
■十六橋の戦い
1868年10月7日午前4時ごろ、十六橋に駆け付けた会津軍の奇勝隊(きしょうたい)が、新政府軍の足止めにするため、十六橋(じゅうろっきょう)の爆破にかかる。
十六橋は福島県を流れる日橋川にかかる石橋で、母成峠ルートから若松城へ向かうためには、十六橋を渡らなければならない。
台風の影響で雨が降り、日橋川は水かさが高くなっているうえ、秋に入っており水は冷たく、日橋川を歩いて渡ることは難しい。
十六橋を壊しておけば、大きく迂回しなければ若松城にたどり着けない。その間に藩境の警備に出ていた会津兵を呼び戻し、体勢を立て直すことが出来る。
十六橋は戦略上の要所で、新政府軍の板垣退助は、会津藩が十六橋を爆破することを予想していたため、母成峠からの侵攻に反対していた程である。
このため、会津軍の奇勝隊(きしょうたい)が十六橋を爆破していたのだが、台風の影響で雨が降っており、なかなか爆破できない。
そこへ、新政府軍の薩摩藩士・川村与十郎の部隊が現れたのである。
母成峠を突破した新政府軍は、猪苗代城で待機して援軍を待つことにしたが、進軍を主張した薩摩藩士・川村与十郎の隊だけが夜を徹して十六橋へ向かったのである。
1868年10月7日午前4時ごろ、新政府軍の薩摩藩士・川村与十郎の部隊が十六橋に到着したときには、十六橋をまだ爆破されておらず、会津軍の奇勝隊が十六橋の爆破に取りかかっていたところだった。
■鬼の勘兵衛
会津藩は敗戦に次ぐ敗戦で首脳陣が混乱していた。元々、白河城で新政府軍を防ぐ予定であったうえ、戦況の悪化により、仙台藩も自国の防衛のために兵を引き上げたため、会津藩の軍議が定まっていなかった。
新政府軍に母成峠を突破されたにもかかわらず、会津藩は未だに主力部隊を国境に配備しており、若松城に残っているのは老兵や少年兵や義勇軍という有様だった。
会津藩は東北の雄藩といえど、関ヶ原の合戦などを経験しておらず、経験不足は否めなかった。有事に際して軍議が定まらず、対応が後手後手となっていた。
そこで、名乗りを上げたのが、会津藩一の猛将・佐川官兵衛だった。佐川官兵衛は京都時代に数々の武功を挙げ、薩摩藩・長州藩から「鬼の勘兵衛」と呼ばれて恐れられていた。それは、佐川官兵衛の名前を聞いただけで逃げ出す兵も居るほどだった。
名乗りを上げた佐川官兵衛は「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」と言い、義勇軍の奇勝隊・敢死隊・回天隊などを引き連れて出陣したのである。
ただ、佐川官兵衛の出陣が遅かったため、十六橋の爆破も遅れていた。十六橋に到着した奇勝隊は、直ぐさま十六橋の爆破に取りかかるが、十六橋は石橋なので簡単には壊れない。
そこへ、母成峠を突破してきた新政府軍の薩摩藩士・川村与十郎の部隊が現れたのである。川村与十郎は猪苗代城で休息を取ること無く、要所の十六橋を制圧するため、進軍を強行してきたのだ。
川村与十郎の部隊は十六橋に着くやいなや、橋を爆破している奇勝隊に一斉射撃を加えた。
これに対して、会津軍の奇勝隊は必死に応戦するが、川村与十郎の部下で薩摩藩士の別府新助が川に飛び込むと、その他の兵も別府新助の後に続き、川と橋から新政府軍が一斉に押し寄せてきた。
奇勝隊は僧侶を集めた義勇軍だったため、怒濤のごとく押し寄せてくる新政府軍を食い止めることが出来るはずもなく、撤退を余儀なくされた。
新政府軍はこうして要所の十六橋を確保すると、わずかに壊れた橋を板を渡して、若松城を目指して兵を進めたのである。
実話「新島八重の桜」の会津編「実話-会津若松の白虎隊の悲劇のあらすじとネタバレ」へ続く。