実話-会津若松の白虎隊の悲劇
山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-会津若松の白虎隊の悲劇のあらすじ」編です。
このページは『実話「十六橋の戦い」のあらすじとネタバレ』からの続きです。
実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■戸ノ口原の戦い-白虎隊の出陣
1868年10月7日、十六橋を押さえた新政府軍は、若松城の北東わずか数kmに位置する戸ノ口原まで迫った。新政府軍は援軍が加わり、ますます勢いは盛んになっていた。
これを迎え撃つのは、「鬼の官兵衛」という異名をもつ、会津藩一の猛将・佐川官兵衛(さがわ・かんべえ)である。
「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」と豪語する佐川官兵衛は、強清水村(こわしみず村)に本陣を置き、戸ノ口原で新政府軍を迎え撃つ準備をしていた。
しかし、会津軍は主力部隊を国境に展開しており、若松城に残っている兵はわずかで、戸ノ口原に集まった兵は、敢死隊(かんしたい)や奇勝隊(きしょうたい)などの義勇軍(非正規軍)を主とする1000人程度であった。
このため、白虎隊は予備隊という位置づけで、戦争に参加する予定は無かったが、戦争に駆り立てられることになる。
■白虎隊の出陣
1868年10月7日午後2時、会津藩主の松平容保は警護の白虎隊(士中一番隊と士中二番隊)を従え、滝沢本陣に到着する。
(注釈:松平容保は松平喜徳に家督を譲っており、松平容保を前藩主であるが、便宜上、松平容保を藩主と表記する。)
そのころ、滝沢本陣には十六橋から敗走してきた会津兵が続々と押し寄せていた。さらに、戸ノ口原から戻ってきた会津藩士・塩見常四郎が援軍を求めてきた。
すると、隊長の日向内記(ひなた・ないき)が率いる白虎隊(士中二番隊)が援軍に名乗りを上げた。
藩主・松平容保はこれを許可し、白虎隊(士中二番隊)を戸ノ口原への援軍に向かわせると、白虎隊(士中一番隊)を引き連れて若松城へと引き返した。
予備隊として編成された白虎隊(士中二番隊)は実戦経験を積んでおらず、白虎隊(士中二番隊)にとってはこれが初陣である。
白虎隊(士中二番隊)は当初、ヤーゲル銃という火縄銃に毛の生えた程度の洋式銃を装備していたが、ヤーゲル銃は役に立たないため、武器担当役人を脅迫し、馬上銃を手に入れていた。馬上銃はヤーゲル銃とは比べものにならないほど扱いやすかったという。
白虎隊(士中二番隊)が装備していた馬上銃は「マンソー銃」(マンソー騎銃)だと推測されている。馬上銃がマンソー銃だった事を裏付ける資料は無いが、ここではマンソー銃としておく。
一方、白虎隊(士中一番隊)も出陣を懇願したが、藩主・松平容保を警護する任務があるため、仕方なく、藩主・松平容保に伴って若松城へと引き上げた。
■白虎隊の出陣
初陣となる白虎隊(士中二番隊)37名は、隊を2つに別れて戸ノ口原を目指した(その後、合流している)。
(注釈:白虎隊士中二番隊の人数については諸説があるが、ここでは定説となっている37人説を採用する。)
合流した白虎隊(士中二番隊)37名は舟石(地名)に達すると、戦場から砲撃の音などが聞こえ始めたため、白虎隊(士中二番隊)は舟石茶屋に携帯品を預け、馬上銃(マンソー銃)に銃弾を込めた。
このとき、白虎隊(士中二番隊)は携帯していた食料も舟石茶屋に預けたという説もある。
■白虎隊(士中二番隊)の初陣
1868年10月7日午後4時、舟石茶屋に携帯品を預けて身軽になった白虎隊(士中二番隊)37名は、強清水村を経由して、戸ノ口原の側にある菰槌山(こもづちやま)に到着する。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山に布陣し、塹壕を掘って菰槌山から新政府軍を狙撃した。菰槌山では敢死隊(かんしたい)も戦っていた。大砲の援軍も駆け付け、会津軍は新政府軍をいったん退けることに成功した。
この日、白虎隊(士中二番隊)は食料を携帯していないため、敢死隊から握り飯を分けてもらい飢えをしのいだ。
白虎隊(士中二番隊)は敢死隊と供に菰槌山で新政府軍を迎え撃つ予定であったが、篠田儀三郎が進軍を主張する。
白虎隊員も篠田儀三郎の意見に賛同し、白虎隊(士中二番隊)は菰槌山を敢死隊に任せて前線へと向かうことにした。
■二手に分かれた白虎隊
ここから、酒井峰治と飯沼貞吉の証言が大きく違うため、白虎隊(士中二番隊)は、「挟撃作戦部隊(酒井峰治)」と「前線突入部隊(飯沼貞吉)」の2手に別れた可能性がある。ただ、詳しいことは分からない。
ここでは、飯盛山で自害する白虎隊(士中二番隊)16名が焦点を当てたあらすじを紹介するため、「前線突入部隊(飯沼貞吉)」のあらすじを紹介する。
■白虎隊の隊長・日向内記の失踪
1868年10月7日夜、日が暮れ、雨も降り出したため、前戦を目指していた白虎隊(士中二番隊)は進軍を停止し、野営することにした(台風が近づいており、天候は悪かった)。
その後、隊長の日向内記(ひなた・ないき)は軍議に参加するため、1人で白虎隊(士中二番隊)を離れた。
隊長の日向内記が白虎隊を離れた理由は、食料を調達するためとされてる。強清水村の本陣での軍議に参加するためという説もあるが、真相は分からない。
1868年10月8日午前5時ごろ、夜が明け始めても隊長・日向内記が戻ってこないため、日向内記に変わって篠田儀三郎が指揮を執り、白虎隊(士中二番隊)を進軍させた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)は、水の無い溝を発見し、溝に身を隠した。そして、進軍して来た新政府軍をめがけて側面から発砲する。
奇襲攻撃を受けた新政府軍は一時、混乱したものの、直ぐに応戦。多勢に無勢で、新政府軍の反撃に遭った白虎隊(士中二番隊)は総崩れとなり、ちりぢりとなって敗走する。
■実話-白虎隊(士中二番隊)が飯盛山へ
追っての兵から逃れて、白虎隊(士中二番隊)は野営地までたどり着くと、白虎隊員は、わずか16人となっていた。
白虎隊(士中二番隊)はここで休息を取る。白虎隊員16人の中には昨夜の残飯を所持している者がいたため、残飯を水の中に放り込み、16名はそれを食べて飢えをしのいだ。
そして、16人では戦うことも出来ないことから、白虎隊(士中二番隊)は若松城まで退却し、体勢を立て直すことにした。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山で握り飯を分けて貰った敢死隊(かんしたい)の宿舎にたどり着くが、既に新政府軍に攻撃された後で、死体が散乱していた。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵を避けつつ若松城を目指していたが、滝沢峠で敵兵に遭遇。白虎隊(士中二番隊)は敵兵だとは気づかず、合い言葉をかけるが、敵兵が発砲してきた。
この砲撃で白虎隊(士中二番隊)の永瀬雄治が腰を負傷する。白虎隊(士中二番隊)は永瀬雄治を背負って敵兵から逃げた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)16名は洞窟「弁天洞門」を通って飯盛山に落ち延びた。16名が飯盛山の山頂に着いたのは1868年10月8日午前11時頃のことであった。
■実話-燃えた藩校「日新館」
藩主の松平容保は負傷兵のために、若松城の西隣にある藩校「日新館」を解放し、救護所(病院)としていた。
日新館には、江戸から逃れてきた医師・松本良順と弟子が居り、松本良順の指揮の下で負傷兵の治療が行われていた。
会津藩の女性は日新館で負傷兵の治療を行っており、ボランティア看護婦のようなことをやっていた。
1868年10月8日早朝、戸ノ口原を突破した新政府軍が城下町へ押し寄せると、会津藩は若松城の城門を閉ざした。
そして、会津藩は、若松城の西に隣接する藩校「日新館」が敵の拠点に使われることを恐れ、日新館に火矢を放ったのである。火は瞬く間に藩校「日新館」を包んで燃え上がった(日新館の焼き討ち事件)。
一説によると、藩校「日新館」の火事を飯盛山から見ると、まるで若松城が燃えているように見えるという。
白虎隊が見た火には諸説あり、山本八重は自害した白虎隊について、「官軍に来られ、仕方なく米を運ばれるだけ城内に運びまして、十八倉(米倉)を焼いてしまったのでございます。味方の方をここから見ますと、ちょうど三の丸の森がございまして、城の方へ見えますから、城が焼けてしまったと思って、みんな割腹して死んだのでございます」と話している。
■白虎隊(士中二番隊)の悲劇-集団自決
飯盛山の山頂に登った白虎隊(士中二番隊)が若松城を見ると、既に若松城が炎上していた。大砲の音も絶え間なく鳴り響いている。城下町からも火の手が上がっている。滝沢街道を見ると、新政府軍の長蛇の列が街道を埋め尽くしていた。
白虎隊(士中二番隊)の井深茂太は「若松城は天下の名城であり、燃えていても、まだ落ちていない。君主が健在である以上、無益な死は避けるべきだ。南方から入城する」と主張する。
一方、敵陣に切り込んで1人でも多くの敵を殺すべきだ、と主張する隊員もおり、白虎隊は喧々囂々の議論となった。
しかし、最終的に篠田儀三郎が「敵陣に突入するにしても、若松城へ戻るにしても、16人では成功の可能性が低い。もし、敵に捕まって辱めを受ければ、藩主の名を汚すことになる。潔く自害することこそ、武士の本分である」と説得し、白虎隊(士中二番隊)16人は自害することになった。
腹を切る者も居れば、喉を突く者も居る。白虎隊(士中二番隊)の篠田儀三郎ら16人は会津藩士としての誇りを貫き、見事に自刃に倒れたのである。
なお、山本八重が砲術を教えた伊東悌次郎は、白虎隊(士中二番隊)の隊員として戦ったが、飯盛山に到達する前に戸ノ口原(不動滝)で戦死したとされている。
一般的に飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)は19名とされているのは、飯盛山で自害した16人に、戸ノ口原(不動滝)で戦死した白虎隊(士中二番隊)の伊東悌次郎・津田捨蔵・池上新太郎の3人を加えたものである。
さらに、その後、別行動で飯盛山へとたどり着いて、自害した石山虎之助を加えて、自害した白虎隊(士中二番隊)を20人とする説もある。
また、白虎隊は総数340人程度の部隊だが、一般的に白虎隊といえば、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)20人を差す場合が多い。
「白虎隊の生き残り-飯沼貞吉の実話のあらすじとネタバレ」へ続く。