実話-山本八重
山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-会津戦争の山本八重のあらすじとネタバレ」編です。
このページは「白虎隊の生き残り-飯沼貞吉の実話のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜』のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■会津藩の屋並触(やなみぶれ)
1868年10月6日(慶応4年8月21日)に新政府軍が国境の母成峠を突破して会津に侵攻する。これの一報を受けた会津藩は1868年10月7日の朝と夜の2回、「屋並触(やなみぶれ)」を行った。
屋並触(やなみぶれ)とは、会津藩の役人が藩士の家々を戸別訪問して廻り、会津藩の方針や指示を告げていく行為である。
役人は夕方の屋並触で、藩士の家を一軒一軒廻り、留守を守る婦女子に「鐘が鳴ったら、若松城の三の丸へ集まれ」と籠城に関する指示をしていく。
やがて、山本家にも役人がやってきた。屋並触を受けた母・山本佐久は、「女は足手まといになる。無駄に食料を消費するのは忍びない。市外へ逃げよう」と言うが、山本八重は「死んだ弟・山本三郎のため、主君のため、私は決死の覚悟で入城します」と言い放った。
それを聞いた屋並触の役人は、山本八重の意見を絶賛し、「女性は女中の仕事を頼みます。男が女中の仕事をしていては戦力が減ります」と言い、山本佐久にも入城を促した。こうして、母・山本佐久も若松城で籠城することを決めた。
山本八重は自宅で飼っている馬に乗って威風堂々と入城しようとしたのだが、役人に「状況は切迫している」と止められたため、馬での入城を中止して歩いて入城することにした。
■山本八重の入城
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、台風の影響で雨が降りしきるなか、若松城の城下町に早鐘が鳴り響く。
早鐘の音は、屋並触で通達した通り、城に逃げ込めという相図だったが、大砲や鉄砲の音にかき消されていた。既に新政府軍は戸ノ口原を突破し、そこまで迫っており、城下町は大混乱となった。
一方、山本八重は、山本家に寄宿していた仙台藩士の内藤新一郎と蔵田熊之助を見送っていた。
仙台藩は新政府軍との戦争に備えて、仙台藩士の内藤新一郎ら40数名を会津藩へ砲術修業へ出していた。
そして、内藤新一郎らに砲術を指南したのが、山本八重の夫・川崎尚之助であった。
戦争が近づくと、砲術修業に来ていた40数名は仙台へ戻ったが、内藤新一郎と蔵田熊之助は連絡役として会津に残ることを命じられ、山本家に寄宿していた。
やがて会津戦争が始まり、新政府軍は一気に会津領内に進入してきた。内藤新一郎らはこの状況を報告するため、仙台へと引き上げたのである。
内藤新一郎らを見送ると、山本八重は亡き弟・山本三郎の形見の紋付袴を着て、両刀を腰に差し、7連発スペンサー銃を担ぎ、飛んでくる銃弾をくぐり抜けながら、母・山本佐久や姪「山本峰(山本覚馬の娘)」と嫂「山本うら(覚馬の妻=樋口うら)」を伴って若松城へと向かった。
飛んできた鉄砲の弾が山本八重の耳元をかすめると、山本八重は思わず怯んだ。すると、母・山本佐久は「それでも藩士の家族ですか」と叱咤し、若松城を目指し、無事に若松城までたどり着いた。
なお、山本八重(新島八重)は54歳のとき、周囲の人間に促され、紋付き袴を着て若松城に入城した時の姿を再現し、写真を撮影している。
■若松城の城下町の悲劇
会津藩士の家族が取った行動は主に「若松城へ入城する」「食料を消費するのは申し訳ないため、自害する」「市外へ逃げる」の3つであった。
しかし、市外へ逃げようとした者は、卑怯者として身内の手で殺される者もいた。乳飲み子は足手まといになるとして、乳飲み子を殺して若松城へ向かう母親も居た。西郷頼母の一族のように、一族揃って自害する者も居た。
若松城に入城した会津藩士の家族には、着物が鮮血で染まった者も多く、山本八重が入城したとき、城内は殺伐としていた。
新政府軍の進軍は早く、若松城の直ぐに閉ざされた。若松城に入れなかった者も多かった。城外に残された者は市外へと逃げた。自宅に火を放ち、自刃に倒れた者も居た。
国境の母成峠が破られたことは、早々に若松城にも伝わっていたが、薩摩藩などから「鬼の官兵衛」と恐れられている会津一の猛将・佐川官兵衛が「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」と豪語して戸ノ口原へ出陣したため、城下町に避難命令は出ていなかった。
もし、前日に会津藩の役人が屋並触(やなみぶれ)を行った時に避難していれば、籠城初日の大混乱を起こすことは無かったに違いない。
実話「新島八重の桜」の会津編「実話-西郷頼母一族の自刃のあらすじとネタバレ」へ続く。