実話-西郷頼母一族の自刃と中島信行
山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「実話-西郷頼母一族の自刃と中島信行あらすじとネタバレ」編です。
このページは「実話-山本八重のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「山本八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■西郷頼母一族の自刃
若松城の城門近くに、会津藩の家老の西郷頼母(さいごう・たのも)の家老屋敷があり、この家老屋敷で西郷頼母一族21人が自刃に倒れた。西郷頼母一族の自刃があったのは、家老の西郷頼母が国境警備にあたっている時のことである。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、城下町に早鐘が鳴り響き、藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、西郷頼母の一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。
西郷頼母の母親・西郷律子は「女が城に居ては足手まといになる。されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。
西郷頼母の妻・西郷千恵子は義母・西郷律子の後に続き、まだ自害できない幼い我が子を刺した。
そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、返す刀で自分の喉を貫き、会津藩士の妻としての役目を果たした。こうして、西郷頼母の家族9人が自害した。
また、別室に集まった西郷頼母の縁者12人も西郷律子らに続き自害した。この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。
■土佐藩の中島信行の介錯
一方、若松城まで到達した新政府軍・土佐藩の中島信行は、若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。中島信行は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。
土佐藩士・中島信行が長い廊下を渡って1室の障子を開けると、女子供が自刃に倒れて死んでいた。それは西郷頼母の一族21人だった。
しかし、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。年齢から考えて、女は西郷頼母の長女・西郷細布子(16歳)だとされている。
西郷細布子は母に頼らずに自害したが、急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。西郷細布子はもうろうとしながらも、障子を開けた中島信行の気配に気づくと、「敵か、味方か」と問うた。
土佐藩士の中島信行が「安心せい、味方じゃ」と答えると、西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。
(注釈:西郷頼母の家老屋敷に入ったのは、土佐藩士・中島信行とされているが、中島信行は土佐藩を脱藩しており、会津戦争に加わっていないため、別人の可能性がある。)
会津藩士の家族の中には、西郷頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを危惧して、自害した者が大勢居た。
柴五郎の家族も自害している。内藤介右衛門の家族も面川泰雲寺で自害している。戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は計230人に上ったという。
実話「新島八重の桜」の会津編「実話-幕末のジャンヌダルクの山本八重のあらすじとネタバレ」へ続く。
コメント欄
今日の眼でみれば一家自刃とは早まったことと思うかもしれない。しかし女の操を命とも思った価値観からすれば辱めを受けるより死を選ぶのは当然であったろう。事実官軍の兵が強姦暴行を働き、怒った西郷が何人かを斬首したという。ドイツやソ連の兵士は強姦と略奪が兵の特権として認められていたという。ベルリン陥落のときソ連兵士が強姦したベルリンのドイツ女性は十万の上、そして強姦死の女性は無慮一万以上であったという。これは米軍も同様で、サイパン戦のときそして沖縄戦のとき我が女性が次々と自殺したのはすべてその理由によるものであった。近くはベトナム戦における韓国軍の暴行が有名である。