会津藩を裏切った極楽寺-武田宗三郎の報復
山本八重(新島八重)の生涯をあらすじで紹介する実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレシリーズ「会津藩を裏切った極楽寺-武田宗三郎の報復」編です。
このページは「実話-山本八重と水島粂の夜襲のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「山本八重の桜」の目次は『実話「山本八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。
■会津若松城の弱点
山本八重らが籠城する若松城の南東1.5kmの位地に小田山がある。小田山の標高は372mあり、小田山からは若松城が一望できる。
難攻不落の名城と言われる若松城であったが、若松城にも弱点があった。それが小田山だった。若松城は小田山に近すぎるのだ。
若松城を建設した当時は、若松城にとって小田山は弱点ではなかったが、戦後時代の後期になると、大筒(大砲)や鉄砲が使用されるようになり、状況が変わた。
戦国時代後期に会津を支配してた上杉景勝は、小田山から大砲を撃ち込まれると不利になることに気づき、防備を強化するため、直江兼続に神指城(こうざしじょう)の建築を命じた。これが1600年のことである。
神指城(こうざしじょう)はほぼ完成したのだが、1600年10月21日に「関ヶ原の戦い」が勃発。上杉景勝は「関ヶ原の戦い」で西軍(石田三成)に付いたため、敗戦後、米沢へ移封となり、神指城は撤去された。
■極楽寺の裏切り-ブルータス、お前もか
小田山は地理的に重要なだけでは無く、小田山には会津藩の火薬庫があった。火薬庫には火薬1800kgが保管されていたが、会津藩は小田山に兵を配置していなかったうえ、火薬庫の火薬も若松城へ搬入していなかった。
1868年10月10日(慶応4年8月23日=籠城2目)、国境に配備していた主力部隊が新政府軍の隙を突き、続々と帰城する。
そこで、会津藩は若松城に戻ってきた部隊に、小田山を占領するように命じた。
しかし、部隊は夜を徹して国境警備から帰還しており、兵士が疲労していたため、城内で休息し、翌日、小田山へ向かうことになった。
1868年10月11日(籠城3目)、若松城の近くにある極楽寺の僧侶が、新政府軍に小田山の重要性を密告する。極楽寺の僧侶は会津藩の政策に恨みを持っており、会津藩を裏切って寝返ったのだ。
新政府軍の部隊が偵察へ行くと、まさしく、小田山からは若松城の天守閣が一望できた。小田山は、まさに若松城の弁慶の泣き所だった。
新政府軍の板垣退助は小田山を占領して陣を築く。小田山から見れば、難攻不落と言われる若松城の天守閣はもはや、丸裸も同然だった。
新政府軍の鍋島藩は、最強の大砲「アームストロング砲」を所有しており、新政府軍は小田山にアームストロング砲や四斤砲を計15門設置して若松城を砲撃し、籠城する会津軍を苦しめた。
しかし、会津兵も次第に逃げる要領を得てきた。大砲は方向転換が難しいため、大砲は同じ場所に飛んでくる。だから、大砲が落ちた場所から離れていれば安全だった。
ところが、新政府軍の大砲部隊に赤いチョッキを着た人が現れると、会津兵は大砲に恐れ戦いた。
赤いチョッキを着た人は大砲部隊の指揮官で、指揮官が大砲の角度や方角を変更するため、会津兵は安全地帯が分らなくなるのだ。
■小田山の火薬庫爆破事件
1868年10月11日(籠城3目)、会津軍は小田山を占領しに行く予定だったが、1足違いで小田山を占領されたことを知る。小田山が新政府軍に占領され、火薬庫にある火薬も搬入できなくなってしまった。
敵に火薬をくれてやることはない。かくなる上は、火薬庫を爆破するまでだ。会津藩は決死隊2名を小田山に送り込み、火薬庫の爆破を試みた。
決死隊は小田山の火薬庫の爆破に成功し、大地を揺るがす程の大きな爆発音が若松城にも轟いた(小田山以外にも火薬庫を爆破したので、爆破した日は諸説あり)。
この爆発音を聞いた杉田兵庫の家族は、若松城が落城したものと勘違いして自害した。太田小兵衛の三男・太田三郎も母親と供に自害した。他にも爆発音を聞いて自害した者が複数人出たという。
■武田宗三郎の報復
会津藩の敗戦後、会津藩士の武田宗三郎は謹慎の身となったが、護送中に脱走し、会津藩を裏切った極楽寺の僧侶を殺害して、会津藩の恨みを晴らした。このため、武田宗三郎は薬師川原で処刑された。
実話「山本八重の桜」の会津編「会津藩の山川大蔵の彼岸獅子のあらすじとネタバレ」へ続く。
コメント欄
極楽寺の裏切りさえなければ会津藩は別の戦いが出来たと思う。
極楽寺を支援した同宗の寺のあったことを多くの人は知らないらしい。
現在その寺は不動産業まで行い、人々の顰蹙を買っているが、なんともやりきれない
事実だ。